こちらハイレゾ商會
第75回 ビルスマの名盤がハイレゾ化、高音質でバッハの小宇宙を味わう
アンナー・ビルスマが1979年に録音した『バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)』がハイレゾ配信された。他に1992年に再録音された『バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)』、『バッハ:ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ(全曲)他』『チェロ・ピッコロ〜バッハ:パルティータ&ソナタ』も同時に配信。それぞれにDSFとflacが用意されている。
そこで今回は1979年録音の『バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)』を取り上げてみたい。
僕がこのアルバムを初めて聴いたのは1980年代の末だったと思う。瞬く間にアナログレコードを駆逐したCDが、輸入盤ならなんとか無理をして買えるようになった時期である。過去の名盤の初CD化が眩しい時期であった。
そんな時、クラシック好きの絵描き仲間が貸してくれたのがビルスマのCDだった。我々はアラサーの大人だったにもかかわらず、定職についていない貧乏人だったから、中学生のようにCDを貸し借りしていたのだ。
「これ、いいよ〜。聴いてごらんよ」と貸してくれたのがビルスマの『バッハ:無伴奏チェロ組曲』だった。無伴奏チェロ組曲はすでにヨーヨー・マのCDを大奮発して買っていて、“さすがCDだ! チェロの音も最高!”などと音楽、演奏、音質、どの点でも満足していた。
しかしヨーヨー・マが弾いていたのは現代のチェロ。ビルスマはオリジナル楽器のバロック・チェロだ。当時ビルスマのことはまったく知らなかったが、ホグウッドなどの古楽オーケストラは聴いていたから、“古楽もついにソロの器楽曲に進出したか”と思ったものである。
この感想からわかるとおり、僕はこのCDを新録音だと思ったのである。リリースしたSEONという古楽のレーベルのことさえ知らなかったのだから仕方がない。しかし実際は1979年の録音。箱入りのLP3枚組で発売された。絵描き仲間が貸してくれたのは初CD化のものだったのである。
一般に古楽器がポピュラーになったのはCD時代になってからなので、古楽器といえば80年代からという印象が僕の場合強いが、実はアナログ・レコード全盛の70年代から地道にレコードが出ていたのだった。SEONもレオンハルトやクイケンなど、今では名を知らぬ者がいないほど有名なオランダやベルギーの古楽演奏家のレコードを出していた。
ただビルスマがこの無伴奏チェロ組曲を録音した1979年当時、どれだけクラシック界で話題になったのかはわからない。
当時僕は大学四年生でクラシックも聴いていたが、古楽はまったく眼中になかった。クラシック好きの友人と話していたのは、「バーンスタインの東京文化会館でのショスタコ5番のライヴ盤は凄いで」とか、「ムターは凄いネーチャンやな」といったことばかり。人気指揮者やメジャー・レーベルの新譜ばかり追いかけていた。
のちに古楽のレコードの存在も知ることになるが、それは博物館の展示を見るようなもので、当時の音を知るための研究目的のレコードにすぎないと思っていた。その根底には、バッハやモーツァルトの時代の楽器はまだ発展途上で、満足な表現ができない中途半端な楽器という思い込みがあったからだ。
古楽器が現代の楽器とはまったく違う音色、失われた貴重な響きを持っていると知ったのはCDが登場した80年代半ばのこと。モーツァルトの交響曲やバッハの管弦楽を作曲当時の楽器の音色で聴いた時はひっくり返ったものである。
前置きが長くなったが、古楽のオーケストラ曲で洗礼を受けてひっくり返った僕が、もう一度ひっくり返ったのがビルスマの無伴奏チェロ組曲だった。
ビルスマの弾くバロック・チェロの響きは、古楽で聴くオーケストラ曲以上に鮮烈だった。現代のチェロの肉付きのある響きに替わって、骸骨の骨格だけが剥き出しになったような響き。しかし贅肉がなくなった分、バッハの書いた旋律がシンプルに浮かび上がる。質素だけれども現代楽器では表せない味わいがあった。
最初は音色にびっくりしたが、ビルスマの演奏家としての才能も相当なものだったと思う。
無伴奏チェロ組曲が“舞曲”と気づかせてくれたのもビルスマだ。特にピッコロ・チェロに持ち替えた第6番は「クーラント」「ガヴォット」「ジーグ」とまさしく舞踏音楽を聴いているかのような躍動感だった。音楽に合わせてバッハの時代の人達が踊っている光景さえ目に浮かぶ。カザルスを持ち出すまでもなく、バッハの精神性の象徴として演奏されてきた無伴奏チェロ組曲に新たな光を当てたと言っていい。
この演奏、最初にCDで聴いたせいか、バロック・チェロの金属的な響きとデジタルのクリアさが重なっているのが僕の長年の印象だ。
とはいえハイレゾの豊かな響きを知ったオーディオ・マニアとしては、この録音をCDで聴きたいという気持ちはとっくになくなっていた。硬質な音色のバロック・チェロならば、なおさらハイレゾでなければと思う。しかしまさかDSFの配信までは予想していなかったので、DSFは嬉しいかぎりだ。
DSFで聴いてもバロック・チェロの響きは金属的である。残響音も同じく硬質系だ。しかしオリジナルがアナログレコードで出た音源だけにDSFなら安心感がある。あとはビルスマの奏でる一音一音を味わう旅に出るだけである。聴きどころはやはり低音の響きの豊かさ、音の肌触り、エッジのニュアンスといったところだろうか。これからゆっくりとバッハが最小限の音で作り上げた小宇宙を最高の音質で旅したいと思う。
最後にほかのハイレゾについても書いておくと、現代の楽器モダン・チェロを用いた1992年の再録音盤には、1979年盤への忠誠心から、頑に耳を傾けなかった時期があった。しかしビルスマのその後の探求が盛り込まれた別物の演奏になっていて、こちらも素晴らしい。音色や残響音も当然ピッコロ・チェロを用いた1979年盤より温かくなっていて、そこもハイレゾでの聴きどころだと思う。『バッハ:ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ(全曲)他』、『チェロ・ピッコロ〜バッハ:パルティータ&ソナタ』もビルスマならではの探究心に溢れたものである。これらもハイレゾで聴けるのは喜ばしい。