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1984年に発表された井上鑑のカセットブックが、過剰スペックのハイレゾに文/國枝志郎
カセットテープというメディアは、1960年代後半に登場した。オープンリールに比べて圧倒的に扱いやすい録音メディアとして、FMエアチェックの流行、ウォークマンの登場などといった社会現象も後押しする形で70年代後半から80年代にはその絶頂期を迎えている。そんななか、当時、静かな流行となったのがカセットテープと本を合体させた“カセットブック”というものだった。この組み合わせは、通常のリリース形態(LPとかCDとか本とかの単体として)では成立しにくいものを実現させる実験的なメディアとして、当時の尖ったアーティストが好んで取り組んだという印象があるが、なかでも84年に冬樹社という出版社が出した“SEED”というカセットブックは注目のシリーズだった。冬樹社は浅田彰らによる季刊誌『GSたのしい知識』や、坂本龍一と高橋悠治の対談本『長電話』をやはり84年に刊行して、ニュー・アカデミズムの全盛期を彩ったりした異色の出版社だったが、同じ年に出たこのカセットブック・シリーズもやはりそういった時代にふさわしいラインナップ(細野晴臣から始まり、リアル・フィッシュの矢口博康、ムーンライダーズ、南佳孝)だった。これらは冬樹社の倒産もあってその後しばらく顧みられることはなくなってしまったのだが、21世紀になってそのうちのいくつかがCD化されている。シリーズの第四作としてリリースされた井上鑑の『カルサヴィーナ』(有名なバレエ・ダンサー、ニジンスキーのパートナーであったタマラ・カルサヴィーナをテーマに制作された作品)も、じつは2020年4月に待望のCD化が実現している。それから半年以上が経ったこの年の瀬に、まさかのハイレゾ配信がスタートしたのである。本作のマスターはカセットテープであるから、周波数帯域的にはかなりの制約があることは間違いないが、それでもオリジナルの録音にエンジニアとして参加していた藤田厚生が施したリマスターは素晴らしい成果だ。電子音楽とアコースティック・サウンドの見事な融合が、カセットテープという小さな器からハイレゾという大きな器に変わって、さらに進化した印象がある。96kHz/24bitという、カセットをマスターとしたハイレゾとしては過剰とも思えるスペックだが、音を聴いてみれば納得である。
前回取り上げたドラムスの山本達久が参加したスリーピース・ユニットのハイレゾ(48kHz/24bit)ということで聴き始めたのだが……これがじつに素晴らしい。ユニット名になっているeijiとは? と調べてみると、なんと彼は日本のサイケデリック・ジャム・バンド、DACHAMBOのベーシスト、eiji suzukiだったか! DACHAMBOは2021年に結成20周年を迎えるという歴史のあるバンドで、ツイン・ドラムやディジュリドゥを擁してジャンルレスな快楽音響を聴かせ、FUJI ROCKや朝霧JAM、RISING SUN ROCK FESTIVALといった各地の野外フェスなどの常連として人気が高い。かつて当欄では、メンバーであるHATAのソロ・アルバム(CD HATA名義)を取り上げたことがあったのだけど、eiji suzukiはノーマークでした。すみません。調べてみたら彼はすでに4枚ものソロ・アルバムをリリースしているのであった。最新作『MOON CHILD』は、2020年4月に発表されたばかり。じつは未聴なので申し訳ないのだが、このアルバムで彼はたくさんのヴォーカルを披露しているらしい。そしてそれからわずか半年で、彼にとって5枚目のソロに当たるというeiji trio bandの『hakoniwa』が制作されたわけだが、こちらはおそらく彼にとって初のハイレゾ・アルバムである。『MOON CHILD』にも参加していた家口成樹のピアノ / シンセサイザーと、山本達久の闊達なドラムスを中心とし、前半3曲は3人によるアンビエント・タッチのジャジーなインスト、後半は同様のスペイシー感あふれるリラックスした演奏に、3人のラッパー(ブギ丸、Sing J Roy、RowHooMan)が押し付けがましくない、それでいて不思議と心に染み入ってくるリリックを披瀝する。山本達久のソロ・アルバムを聴いた時にも感じたことだが、やはりこの音楽は2020年の今、この時だからこそ鳴らされるべき音楽だと思うし、静かだがものすごい強度を持つサウンドは、この先も永遠に有効なものであることは間違いないだろう。ずっと聴き続けたい一枚。
クラシック音楽の総本山的存在のレーベル、ドイツ・グラモフォンは、2008年にリリースしたモーリッツ・フォン・オズワルドとカール・クレイグによる『リコンポーズド』以降、クラシックとポップ・ミュージックを自由に行き来する実験的な試みを展開するようになった。現在まで続くその過程でヨハン・ヨハンソンやマックス・リヒターのようなジャンルレスの才能が世に幅広く知られるようになったことは特筆されるべき成果である。そんななか、2020年にそのドイツ・グラモフォンと契約したベルギーの作曲家、ニコラス・レンズ(1957年生まれ)が、その第一弾アルバム『L.I.T.A.N.I.E.S』を同レーベルからリリースしたのだが、これがロック・ファンにも大きな驚きと喜びをもって迎えられた。共同制作者としてニック・ケイヴがクレジットされていたからである。オーストラリア出身のニック・ケイヴはポストパンク・バンドとして知られたバースデイ・パーティを経てバッド・シーズのリーダーとして70年代後半から活動を続けるシンガー・ソングライター。そのニック・ケイヴとバッド・シーズは2019年11月に17枚目となるアルバム『GHOSTEEN』をリリースし、次いでツアーに出る予定であったが、ちょうど世界がCOVID-19禍に苛まれることとなり、ツアーは延期に。代わりにロンドンの誰もいないアレクサンドラ宮殿の異様な静けさの中でケイヴのヴォーカルとピアノのみで録音された『IDIOT PRAYER』というエクストラ作品をこの11月にリリースしたばかりである。それに続いてリリースとなる本作は、ニコラス・レンズとニック・ケイヴのコラボレーションとしては2014年のオペラ『Shell Shock』に続くもの。ニコラスがブリュッセルを自転車で旅したことや、以前、日本の寺院を訪れたことからインスピレーションを得たという。ニコラスはロックダウン中にニックに電話をかけ、12のリタニーを書いてくれないかと依頼した。ニックは「自分が長い年月をかけて書いてきたもの、それはリタニー(宗教的な嘆願)だったのだと思う」と、依頼を快諾したという。フルート、アルトフルート、クラリネット、バスクラリネット、アルトサックス、テナーサックス、ファゴット、ホルン、トランペット、打楽器、ハープ、ピアノ、弦楽器からなる小アンサンブルをバックに4人の歌手が静謐な演奏を繰り広げる。「これは人間の誕生、開花、分裂、再生を追った12の叙情的な作品。ニコラスの音楽の中にはそれが美しく表現されている」とニックは語る。これはまさに今、この瞬間に世界が聴くべき音楽だ。これがハイレゾ(48kHz/24bit)で配信されたことを喜びたい。
うわーーーーーっと思わず叫んでしまったネオアコ・ファンも多いのではないでしょうか。スコットランドで1981年に結成され、86年まで活動した(その後も数回再結成されているけど)ブルーベルズは、アズテック・カメラやオレンジ・ジュース、ペイル・ファウンテンズ、ロイド・コール&コモーションズなどとともにいわゆるネオ・アコースティック・ポップのオリジネイターとして知られているバンドのひとつ。アズテック・カメラのロディ・フレイムやオレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズのような強烈な個性を持つフロントマンがいたわけではないし、正式なフル・アルバムも84年リリースの本作が唯一のもの(92年に日本オンリーでセカンドが出てはいるけど)ではあるが、マンチェスター生まれで一時ザ・スミスにセカンド・ギタリストとして在籍したクレイグ・ギャノンがメンバーだったバンドとして名前が知られていたり、ヒット・ユニット、バナナラマのカヴァーで、ヴァイオリンのボビー・ヴァレンティノの参加も仰いだ「Young At Heart」が、2度にわたって全英チャート(84年には8位、93年にフォルクスワーゲンのCMソングに起用されてリイシューされた際は1位)上位に入ったこともあり、じわっと知られたバンドでもあった。日本のネオアコ・ファンにはとくに人気があり、91年にこのアルバムは日本のみで世界初CD化されたことも当時話題となったものである。そんなアルバムが、2020年の年末になっていよいよ世界各地でCDとしてリリースされることになったのと同時に、ハイレゾ(44.1kHz/24bit)でも配信された。前述したネオアコ・バンドのハイレゾは今のところほとんど配信されていないというお寒い状況なので、今回のこのブルーベルズの配信がその嚆矢となってくれたらなあと祈るような気持ちもある。今回は84年のオリジナルに、かのエルヴィス・コステロがプロデュースした「Some Sweet Day」と「Aim In Life」の2曲を追加収録し、「Everybody's Somebody's Fool」を別ヴァージョンに差し替え、曲順もオリジナルからはちょっと変更してのリリースとなった。ハイレゾ化によって、「Young At Heart」におけるボビー・ヴァレンティノのヴァイオリンや、「Will She Always Be Waiting」全編で聴けるストリング・セクションのサウンドの深みがじつに素晴らしくなっていて嬉しくなった。
今月のDSD大賞。キングレコードはかねてからDSD、それも5.6とか11.2というハイスペックのDSDに意識的に取り組んでいてハイレゾ的に好感度大なレコード会社である。こういったハイレゾ配信だけではなく、最近は4K映像とDSD 5.6MHzによるインターネット・ライヴ配信の実証実験をIIJ、コルグと共同で行なうなど、さまざまな取り組みをしているところも頼もしいところだ。音楽専用レコーディング・スタジオ「キング関口台スタジオ」の存在も大きい。キングレコードは2021年には創立90周年を迎えるという歴史のあるレコード会社であり、ということはアナログの膨大な原盤が大量に保管されているということでもある。そんなお宝のようなアナログ原盤の中から、折に触れてハイレゾリューションなマスタリングを経て、多くのDSD作品が配信されてきたが、創立90周年を1ヵ月後に控えた2020年末に、またしても素晴らしい名盤10タイトルの、DSD11.2という最高スペックでの配信が実現したのはハイレゾマニアへの年末の最高の贈り物でしょう。アーティストのラインナップは春日八郎、三橋美智也、江利チエミ、ペギー葉山、ピーナッツ、平尾昌晃、岸洋子、倍賞千恵子、寺内タケシ、布施明という往年の名アーティストばかり。今回の作品はすべてライヴ・アルバムとなっており、アナログ録音で捕らえられたステージの空気感を、DSD11.2のハイレゾ空間が十分に再現する。どれも名盤だが、とくに今回は布施明の『布施明リサイタル』を推薦しておこう。ピーナッツに憧れて歌手となり、1965年にキングレコードから「君に涙とほほえみを」でデビュー。69年2月に全曲カヴァーで構成されたアルバム『愛』を、70年11月にはオリジナル・アルバム『そっとおやすみ』をリリース。次いでリリースされたのがこのライヴ・アルバム『布施明リサイタル』となる。本作は70年11月、アルバム発売に合わせて東京のサンケイホールで行なわれたライヴで収録されたもので、アレンジは2020年6月に惜しくも亡くなられた服部克久、バックを務めるのは宮間利之とニュー・ハード、4曲目の「ラブ・ミー・トゥナイト」のゲスト・ヴォーカルはナポリ出身のシンガー、ジャンニ・ナザーロ。当時まだ布施は20代前半だったはずだが、この堂々たる佇まいと艶っぽさはすごいとしか言いようがない。
イル・ポモ・ドーロのピリオド演奏による最上級のバッハ文/長谷川教通
テルミン……えっ、それ何? という人もいるだろう。たしかにメジャーな楽器ではないけれど、その不思議な音色は一度聴くと聴覚に染みついて忘れられなくなる。1920年にロシアの科学者、レフ・テルミンによって発明された世界初の電子楽器。もう100年の歴史があるのだ。ところが演奏が難しい。世界でも超名人と言える奏者はほんの一握りなのだ。このアルバム『Air électrique』で演奏しているのはオランダのトルヴァルド・ヨーゲンセン。テルミンによるクラシック音楽の最先端を突っ走る奏者だ。彼が操るのはMOOG Etherwave Pro。奏者は楽器に触れることなく空中で手を動かして、アンテナと人間との間に生じる静電容量の変化によって、音程と音量をコントロールする。人間も楽器の一部となるので奏者によって条件は変わるし、演奏する場所や環境にも影響を受けるので、周到な調整が必要だ。
テルミンといえばヒッチコックの映画『白い恐怖』で使われたり、ちょっと音程が不安定でウァーンと唸るように音階を移動できるので、不安や恐怖などサイコ的なイメージでとらえられることもあるが、このアルバムを聴けばそんな先入観などいっきに吹き飛ばされてしまう。収録されている作品はすべてテルミンとピアノのためのオリジナルだ。テルミンの奏法を徹底的に追求した音楽が並んでいる。グワーッと音圧を上げた低音域の迫力はまるでオルガンのようだし、中音域の音色は「これはチェロか」と思わせる。高音域の伸びもすばらしい。コントラバスからヴァイオリンまでの音域をカバーするうえに、ピアノの打鍵の鋭さにも負けない強靱な表現力に驚かされる。飛躍する音階でも不安定さはないし、速いパッセージも軽くこなしてしまう。みごとなピチカット奏法まで聴かされると、もうテルミンの世界にグイグイと引き込まれてしまう。2020年オランダで収録された96kHz/24bitの音質もきわめて鮮やかなので、オーディオ・ファンにもオススメだ。
e-onkyoにはもう1作、ドイツの女流テルミン奏者カロリーナ・アイクがクリストファー・タルノフ作曲の「テルミン・ソナタ第1番と第2番、間奏曲」を演奏した録音がアップされている。タルノフは2013年以来アイクのピアノ・パートナーとして世界中で演奏活動を続け、テルミンのための作品を書いている。2014年の収録だが、この96kHz/24bit音源も聴き応えがある。
2012年に創立されて以来、イタリアのピリオド楽器オーケストラ「イル・ポモ・ドーロ」の活躍はめざましい。ハイレゾ音源のアルバムタイトルを検索すれば、ヘンデルのオペラからエドガー・モローのチェロによるハイドンやバロックのコンチェルト、カウンターテナーのフランコ・ファジョーリやソプラノのフランチェスカ・アスプロモンテ、メゾ・ソプラノのアン・ハレンベリと共演した録音、レーベルもドイツ・グラモフォン、デッカ、エラートと多彩で、まさにバロック音楽では引っ張りだこ。とにかく世界各地から古楽のスペシャリストが集結したオケだけに、音楽の勢いや響きの密度がすばらしいのだ。チェンバロのソロは2018年からゲスト・コンダクターをつとめるフランチェスコ・コルティが弾いているが、じつに息の合ったアンサンブルを繰り広げて、それぞれの声部の掛け合いがスリリング。「これぞイル・ポモ・ドーロの実力!」と納得させられる。現代のピリオド演奏による最上級のバッハだろう。
そのうえ感心するのが録音の良さで、圧倒的な鮮度感と響きの豊かさにゾクゾクしてしまう。ピリオド楽器では響きが薄く、金属的な響きで録られた演奏も少なくないが、このペンタトーン録音はすごい。ヴァイオリンは空気を切り裂くほど先鋭なのに、高音域のノイズっぽさがない。音楽の基音を担う1kHz前後のエネルギーがしっかりととらえられていれば、これに高音域の倍音成分が加わってもシャリシャリと耳につく響きにはならない。このあたりはマイクロフォンの選択とセッティングする位置関係、ミキシングのバランス感覚に負うところが大きい。ハイレゾ時代の録音では、演奏のクオリティと同時にエンジニアの感覚が音源の質を決めるのだ。楽器とマイクロフォンの間にある空気をも表現に参画させる……そう言っても間違いはない。しかも、この録音では2ch再生なのに三次元的な音響空間がみごとなのだ。アダージョ楽章でのオケの響きをベースにしてチェンバロ・ソロがスーッと立ち上がるような空間表現。チェンバロを中央にして弦楽器が取り囲むような配置が目に浮かぶ。これこそハイレゾで録り、ハイレゾで聴く醍醐味だ。
イギリスの名指揮者ジョン・バルビローリの録音が次々とリマスターされ、192kHz/24bitのハイレゾ音源でリリースされている。バルビローリと言えば、シベリウスやマーラー、ブラームスなどの超名演に加えて、エルガーをはじめとするイギリス音楽においても最上の演奏を遺した指揮者。ジャクリーヌ・デュ・プレのソロによるエルガーのチェロ協奏曲も永遠の名演。だから交響曲や管弦楽曲の指揮者というイメージがあるかもしれないが、どうしても忘れることのできない録音がある。それがプッチーニのオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』だ。バルビローリがローマ歌劇場管弦楽団&合唱団を指揮し、蝶々さんをレナータ・スコット、ピンカートンをカルロ・ベルゴンツィが歌う。1966年の録音だからスコットは32歳。彼女が『マダム・バタフライ』でニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューした翌年のことだ。ベルカント唱法の伝統を受け継ぐソプラノと評されるつややかで美しい声と抜群の歌唱力。一方のベルゴンツィも42歳という脂ののりきった時期のテノールのすごみ。ビリビリと響く高音域に聴き手の聴感覚が刺激されっぱなしだ。第一幕の蝶々さんとピンカートンの二重唱、そして第二幕の「ある晴れた日に」で聴きとれる若々しさ危うさと憧れ……スコットの表現が、後半の哀しみを暗示させ、第3幕が始まる頃にはもう胸がいっぱいになってくる。バルビローリは過剰な演出を抑えながらプッチーニの旋律をなめらかに紡いで美しい。ここぞというところでは思い切り音を鳴らし、とくに金管楽器に存在感があって、もう一人の歌い手がいるような感じさえ抱かせる。ラストシーンではスコットが絶品。このストーリーは考えてみればひどい話。でも、哀しさをグッと胸に秘めて運命を一人で背負い込んでいく蝶々さんに、日本人の心情を重ねてしまい、どうにも涙腺の崩壊を止められない。録音は60年代のものらしく、いくぶん硬質だが音像はきわめて明瞭で生々しい。才能ある歌手、オーケストラ、指揮者がローマという場所に集結し、その瞬間に生まれた奇跡のような演奏だと言える。
河村尚子が2年がかりで取り組んできたベートーヴェン・プロジェクトが終わった。そして同時に続けていたベートーヴェンのピアノ・ソナタの録音も、いよいよ最終章となるアルバムがリリースされた。最初のアルバムでは「悲愴」の衝撃的なアタックに「このベートーヴェンは違う!」といっきに彼女の音楽にのめり込んでしまった。次のアルバムでは「ワルトシュタイン」と「熱情」のなんとエネルギッシュなタッチだろうかと感動。彼女のアプローチがオーソドックスかどうか。そんなことは関係ない。全身で作品に突き進む姿から、いまの河村尚子が見出したベートーヴェンの人間性が浮かび上がってくる。楽聖ベートーヴェンではなく、自分のそばで生きているベートーヴェンだ。おそらく楽譜と向き合いながら、「こうじゃない!」「もっと、もっと!」と葛藤を繰り返したに違いない。彼女は国内で行なわれた4回のコンサートとは別に、ドイツのブレーメン放送ゼンデザールで録音を行なっている。ピアノはベーゼンドルファー280VC。担当するプロデューサーやエンジニア、調律師もおなじみのベテランメンバー。彼女の演奏にも長い経験からの有意義なアドバイスしてくれるという。彼女がどう弾きたいのか、それならどうすべきなのか、録られる側と録る側の心の通い合いから生まれた、いわば共同作品といえる。そして大曲「ハンマークラヴィーア」だ。これまで名演と言われる演奏はある。しかし、この演奏はそれらに負けないどころか、独自の感性と強い意志に裏打ちされた最上の解釈になっている。一音一音が生きているのだ。第1楽章に込められたエネルギーの大きさはものすごい。さらに第2楽章から第3楽章へ移るときの息づかいと音のコントラストに、ウーンと唸らせられる。そしてとびきり美しい音色で旋律を紡いでいく。しかしその美しさに酔ってしまうことはないのだ。現役のピアノストの中でも、これだけ弾ける人は希だ。つねに理性の目が全体に行きわたって、低音域や高音域をどう鳴らすか、どこでテンポを動かすか、和音のバランスはどうか、間の取り方はこれでいいか、みごとなまでにコントロールされている。そのことが手に取るように伝わってくる……録音がいいのだ。タッチの違い、和音の色合いまで「君が意図した音はすべて受け取ったよ!」とエンジニアがつぶやいているような音だ。
マンドリンを引っさげて世界を渡り歩くアヴィ・アヴィタル。日本での人気もうなぎ上りだ。彼は1978年にイスラエルで生まれ、8歳からマンドリンを習い、マンドリン・ユース・オーケストラにも参加。その後イタリアに渡りメキメキと腕を上げていったという。ニューヨークのジュリアード音楽院でも学んでいる。2010年にはイスラエル出身の作曲家アヴドル・ドルマンのマンドリン協奏曲でグラミー賞ベスト・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門にノミネートされるほどアメリカで注目されている。ドイツ・グラモフォンには2012年のバッハ・アルバムでデビュー。その後もヴィヴァルディや各国の民謡をベースにした作品から近現代の作品まで幅広いレパートリーを次々とレコーディング。『Avital Meet Avital』では同姓のジャズ・ベーシスト、オマール・アヴィタルと組んで、地中海を取り囲む国々の音楽的エッセンスを取り込んだクロスオーバー・アルバムをも創造した。そして最新アルバム『Art of The Mandolin』ではクラシック畑でのマンドリンの多様性と可能性をアピールする。この楽器の多彩なテクニックと表現方法を、バロックから現代の作品で展開してみせる。ヴィヴァルディの協奏曲では、これまで何度となく共演しているヴェニス・バロック・オーケストラと息の合った演奏。まるで明るい日差しのもと、さーっと涼風が吹き抜けていくようなサウンドだ。ベートーヴェンではハープとのデュオ、イギリスの現代作曲家デイヴィット・ブルースではギターが加わる。ギターは注目の若手ショーン・シベだ。そしてジョヴァンニ・ソッリマによるマンドリン・ソロ、スカルラッティのマンドリンと通奏低音というオーソドックスな演奏を経て、アルバムのクライマックスへ向けてパウル・ベン・ハイム、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの作品へと展開されていく。じつに野心的なプログラム。アヴィタルの意欲がビンビンと伝わってくる。2019年12月、2020年1月の最新録音。S/Nがとても良好で、マンドリンの繊細な音色がきれいにとらえられている。