はじめに
今まで音楽にまつわるイラスト・エッセイをいろいろ書いてきましたが、今回は小さい頃の話を書くことになりました。いちおう期間を設けて、僕が生まれた1958年(昭和33年)から1971年(昭和46年)までとしました。生まれてすぐの出来事は“記憶力がいい”と褒めていただくことが多い僕でもさすがに記憶がありませんので、幼稚園あたりからの記憶をたどることになります。つまり小学生の頃の思い出話がメインです。
この時期はいわゆる1960年代で、音楽、映画、風俗などで世界的に革命的なカルチャーが生まれた時代です。若い男性は女性のように髪を伸ばし、女性はミニスカートをはきました。若者だけでなく、年齢が上の人たちも高度成長期の波にのってエキサイティングな日々を過ごしていたのではないかと思います。
そんな60年代、僕たち子どもも大人に負けず劣らずエキサイティングな文化に浸っていました。貸本は週刊漫画誌へと変わり、幼稚なプラモデルは精密なスケール・モデルへと変貌し、テレビや映画では新しい怪獣やヒーローが毎年誕生していました。これらを享受するだけでなく、大人が夢中になったプロレスや、お兄さん、お姉さんたちが夢中になったエレキ、グループ・サウンズなども一緒になって楽しんでいたのですから、子どもにとってもてんこ盛りの時代でした。
この連載では、そんな僕の思い出を記憶の彼方から呼び戻して文章を書き、当時の空気感まで伝わるようなイラストに(なるべく)してお届けしたいと思います。岡崎という、都会でもなく田舎でもない中庸な地方都市の話なので、同世代の方には共通のエピソードが多いと思いますが、ひとつだけお断りしておくと、運動オンチであった僕ですので、男子の定番であった野球で遊んだ話は出てきません。あしからず。ということで勉強も運動も平凡な子どもの、いち生活記録として楽しんでもらえればと思います。
牧野良幸
第1回 東宝の怪獣映画クロニクル
絵と文 / 牧野良幸
初めての怪獣映画は『モスラ対ゴジラ』
まずは映画の話を書こう。しかし小学生の頃に観たのは怪獣映画ばかりである。当時の映画は二本立てだったから、併映でクレイジー・キャッツや加山雄三の映画も観たに違いないが、そちらの記憶はない。今も覚えているのは怪獣映画ばかりだ。
怪獣映画のメインは東宝。すなわちゴジラだった。後から大映もガメラでゴジラと同じくらい人気を呼ぶが、ゴジラのほうが上という意識は常にあった。なにせ東宝は特撮が円谷英二だ。伊福部昭のおどろおどろしい音楽もつく。映画を観ている間は異空間にいるようで、オープニングの東宝のマークを見ただけで身構えたものである。
東宝は1954年(昭和29年)の『ゴジラ』で初めてゴジラを登場させた。2年後の1956年(昭和31年)に『空の大怪獣ラドン』でラドンを、そして1961年(昭和36年)の『モスラ』でモスラを登場させている。いわゆる“東宝の三大怪獣”が揃ったわけである。ここまでは、たぶん僕は年齢的に映画館で観ていないはずである。長い間『モスラ』を観たつもりでいたのだが、やはり3歳では無理だろう。
僕が映画館で観たと確実に言えるのは1963年(昭和38年)の『海底軍艦』からだ。その時僕は5歳だったが場面のいくつかが強く印象に残っている。『海底軍艦』に怪獣は出てこないのでここでは取り上げないが、思い出深い映画なのでまたの機会に書くことにしたい。
ということで怪獣映画でいうと、1964年(昭和39年)の『モスラ対ゴジラ』がたぶん映画館で観た初めての怪獣映画となる。6歳、小学一年生の時である。
『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『モスラ』ときて、『モスラ対ゴジラ』は初めて怪獣が対決する映画となった。対決物というといかにも子ども向けを狙った感じがするが、筋はひとひねりしてある。『モスラ対ゴジラ』と言いながらも、モスラとゴジラの対決で決着はつかない。というかモスラは途中で死んでしまい、最終的にゴジラをやっつけるのはモスラが産んだ双子の幼虫なのだ。
幼虫もモスラには違いはない。しかし親より幼虫の方が活躍するのはどうか。6歳の子どもにはそこが納得できなかったが、展開としてはこの方が確かに面白かった。けなげな幼虫が糸を吹き付けてゴジラを断崖から落とすクライマックスには手に汗握った。最後まで「がんばれえ」と応援していた。
映画には宝田明や星由里子といった有名な俳優が出ていたけれども、子どもには“勇敢なお兄さん”“優しいお姉さん”にすぎない。でも緊張感を強いられる怪獣映画の中で、こういった人たちの登場シーンは息抜きとなった。
唯一名前を知っていたのが南海の“小美人”を演じたザ・ピーナッツだ。テレビで人気者だった双子のザ・ピーナッツは日本人なら誰もが知っている歌手だ。映画の中の「モスラ〜、や、モスラ〜」という歌は子供のあいだでもかなり流行ったと思う。
冬休み、宇宙からキングギドラがやってきた
1964年は『モスラ対ゴジラ』で盛り上がった子どもたちであるが、大人たちは戦後最大の行事で盛り上がっていた。10月におこなわれた東京オリンピックである。
東京オリンピックで東京の街並みは様変わりしたと後で聞いたけれども、さすがに僕の住んでいた岡崎が変わることはなかった。地方の人間にとってオリンピックとの関わりはせいぜいテレビで見るくらいだ。
それでも聖火が岡崎の国道1号線を東京方面に走っていくのを、小学校の生徒全員で見にいったことは記憶している。選手は人ごみで見えなかった。しかし沿道を埋め尽くした群衆の頭の上を聖火の煙が移動してゆく光景は、マラソンのアベベと同じくらい記憶に残っている。
そんな歴史的な1964年も終わろうとする年末に、東宝から新しい怪獣映画が届いたのである。それが『三大怪獣 地球最大の決戦』だ。
このエッセイのために調べてみて初めて知ったのであるが、『三大怪獣 地球最大の決戦』が『モスラ対ゴジラ』の半年後の公開であることに驚いてしまう。1年が長く感じられた子どもの頃の感覚だからかもしれないが、僕としては1年か2年くらいあとの映画とずっと思っていたのだ。東宝は時間をかけて『三大怪獣 地球最大の決戦』を製作したと思い込んでいたのに、なんと半年くらいで作っていた。東宝もノリにノッていたのだろう。
たぶん二学期の終業式だろう。わが一年二組の教室では、先生が宿題や冬休みの過ごし方などを話し、袖をテカテカにした鼻たれ小僧や髪をオカッパにした女の子たちは神妙に聞いている。木造の校舎だから教室の中央ではストーブが燃えていたはずだ。燃料のコークスを校舎の裏から運んでくるのも生徒の仕事だった。その教室で先生が最後に言う。
「あー、これから映画のチラシを配る。前の席から後ろに回して」
当時は学校で映画のチラシを配っていた。地方では上映館を選ぶことなどできないから、特定の映画館の宣伝チラシということになるが、なにせバーゲンのチラシをセスナで空からばらまいていた時代だ、教室で映画館のチラシを配布することなどたいしたことではない。
それまで静かだった教室がにわかにざわつく。前の生徒からチラシを受け取った僕もそれを見て興奮した。東宝のチラシ。ゴジラの映画だ。タイトルは『三大怪獣 地球最大の決戦』とある。ゴジラ、ラドン、モスラの三大怪獣が、宇宙怪獣キングギドラと戦うらしい。
セロファンのように薄いチラシだったが、インパクトはあった。まずキングギドラという今までにないゴージャス(?)かつ強そうな怪獣が強烈だ。もうひとつ、『モスラ対ゴジラ』のような1対1の戦いから、今度は複数のバトル。早い話、これまでとはスケールが違う文字どおり“地球最大”の怪獣映画に思えたのである。ただでさえ胸おどる冬休みがさらにウキウキしたものになった。
実際『三大怪獣 地球最大の決戦』には最高に興奮したと思う。なんといっても不気味なキングギドラが悪役として貫禄十分。逆にそれまで悪者だったゴジラが正義の側にいることも頼もしかった。そこにラドン、モスラが加わり、キングギドラに立ち向かう設定が漫画世代の心をくすぐったのである。僕は今も『三大怪獣 地球最大の決戦』を怪獣映画のベストとしている。
ちなみに併映はクレイジー・キャッツの『花のお江戸の無責任』だったという。クレイジー・キャッツ、とりわけ植木等は子どもにも絶大な人気があったが、残念ながらクレイジー映画のことは憶えていない。ゴジラの前ではやはり「お呼びでない」(植木等のギャグ)のだった。
小学四年生でもすることはゴジラの息子なみ
しかし、さすがの東宝もこのあたりから策を練りすぎだした気がする。悪者だったゴジラが正義の側になった。それはそれで新鮮だったが、あんまりいい人だと魅力がなくなるのは人間も怪獣も同じだ。そもそも子どもは大人が策略する“子ども向け”を簡単に見抜く。
たとえば翌1965年(昭和40年)の『怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ』。あいかわらずキングギドラは冷たい不気味さを秘めていたけれど、ゴジラが“シェー”をするシーンには複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
赤塚不二夫の『おそ松くん』に登場するイヤミのギャグである“シェー”。当時は子どもだけではなく大人も知っているほど流行した。漫画は今日のように文化と考えられておらず、PTAには悪書と呼ばれていた時代である。そんな漫画の代名詞である“シェー”を、大人である東宝が取り入れてくれた。ひょっとしたら世の母親が漫画を認めてくれたのではないか、と喜んだものだ(錯覚であったが)。
しかし別の部分では失望した。怪獣映画は異空間だったはずなのに、“シェー”をすることでゴジラが日常の世界と繋がってしまったのだ。たとえ怪獣がぬいぐるみとわかっていても、たとえ戦闘機を吊るすピアノ線が見えていても、映画の中はリアルな異空間と受け入れていた。しかし“シェー”は『おそ松くん』以外の何物でもない。大人が子どもの側にすり寄ってくると、子どもは白けるものなのである。
1966年(昭和41年)になると『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』が公開された。善良なゴジラ、複数の怪獣が戦うスタイルにマンネリを感じだす。これを小学三年生のくせにシビアと言うべきか、小学三年生だから飽きっぽいと言うべきかはわからない。だけど新しい敵がエビの怪獣とは……。威厳のあったキングギドラには到底及ばない悪役だ。
ただ同じ年に公開された『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』は違う。“凄まじいダークさ”で、甘い怪獣映画に慣れてきた僕を身震いさせた映画だった。この『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』も怪獣映画の傑作と思う。あまりに怖かったので劇場公開以来、僕は一度も観返していないが。
そして僕も小学四年生。1967年(昭和42年)に公開されたのが『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』である。ミニラというゴジラの子どもが登場したことで、もうこれ以上は観るものではないなと(子どものくせに)自覚した。「怪獣映画が幼児化した」と書くのはふさわしくないだろう。たぶん僕の方が一歩大人に成長したのだ。ミニラよりは、この頃テレビで始まった『ウルトラセブン』のアンヌ隊員のほうがずっと刺激的だった。ゴジラだけでなく、ガメラもこの年の『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』を最後に僕は卒業することになる。
当時は映画の上映中でも自由に出入りできたし、何回も観ることができた。怪獣映画はたいがい2回は見たものである。しかし9歳や10歳ともなるとギャング・エイジと言われる時期だ。エビラやミニラが出る怪獣映画では2回目が退屈になる。それで席を離れてウロウロする子どもが出てくるのである。僕もそう。最後はスクリーンのあるステージで寝そべって観たりした(すごい迫力とアングルですよ)。
それでも大人に怒られなかったのが今でも不思議だ。たぶん「ガキはしょうがないなあ」と大目に見られていたのだろう。怪獣映画に見切りをつけたつもりであったが、やっていることは、ミニラと同じレベルであったのである。