第11回 カラーテレビと僕のカラー体験
絵と文 / 牧野良幸
近所でカラーテレビが増えてきた
僕が小さい頃はどの家庭もテレビは白黒テレビだった。しかし番組があまりにも面白かったので白黒でも不満はなかった。というか小さい頃は、カラーテレビというものがあることすら知らなかったのだ。どのあたりでカラーテレビ、それからカラー放送のことを知ったのかはさだかではない。
カラーテレビが僕の記憶にはっきりと登場するのは1968年(昭和43年)からになる。小学五年生の時だ。町内で駄菓子屋をしていた同級生のHの家でカラーテレビを見た。その年開催されたメキシコオリンピックの衛星放送だったと思う。
同じ年に、これも町内の同級生Kの家でカラーテレビを見せてもらったから、この頃が岡崎の庶民にカラーテレビが広まった時期かもしれない。
Kの家に遊びに行くと、お母さんが出してくれたカルピスを飲みながら、カラーテレビを見るのが楽しみだった。ビクター製のカラーテレビで、Kが色の調節の仕方をデモンストレーションしてくれた。
「ツマミを回して画面に出てくる緑のラインが細くなるようにする。ほしたら色調整が完了。色は人間の肌の色で確かめるんだわ」
「へー、赤とか青じゃなくて肌色か。確かに肌色なら色を決めやすいわ」
と僕は感心した。
Kとは今日まで付き合いがあり、中学生からはビートルズのレコード、TEACのオープンリール・デッキ、成人したあとも初代ウォークマンなど色々なものを見せてもらうことになるが(拙書『僕の音盤青春記』に書いた)、カラーテレビはその始まりだった。
ただ当時はカラーの番組はまだ少なかった(カラーの時は画面の隅に“カラー”の文字が出た)。色味も安定しなかったし画質も悪かった。総天然色に感動はしたものの、頭のすみに、これが最高の色ではないという意識もあった。
小学五年生の僕にどうしてそんな感覚があったのかというと、実はカラーテレビを目にする前に衝撃的なカラー体験があったからだった。話は数年さかのぼるが、その話も書いておこう。
息を飲んだカラー体験
それは小学三年生の頃だろうか、僕はおかあちゃんに連れられて行列に並んでいた。場所は自分の通う小学校の学区ながら、子どもには縁のない建物。他にも親につれられて子どもがたくさんいる。たぶん子ども向けの催しがあるのだろう。
建物に入ると、大きな部屋に座席が並んでいて正面にはスクリーンがあった。どうやら何かが上映されるらしい。照明が落とされると映画が始まった。それはアニメーションであったが、テレビで見たことがない、初めて見るアニメーションだった。それも白黒ではなくカラー。
オープニングからぶっ飛んだ。なんと綺麗な色だろう!
テレビの白黒のアニメと違うのはあたりまえにしても、映画館で見る怪獣映画のカラーとも違う。“総天然色”というのは実写に当てはまる言葉で、言ってみれば色の説明みたいなものにすぎない。しかしこのアニメーションは色が自己主張している。キラキラと輝いている。色だけで息を飲むほど感動したのは初めてだった。
それが手塚治虫の『ジャングル大帝』。
催しはたぶん試写会のようなものだったと思うのだが、それがテレビ放送前の試写会だったのか、劇場版映画の試写会だったのか、そこまではわからない。
今思うと『ジャングル大帝』はそれまでのテレビアニメを超えるクオリティだったと思う。とくに冨田勲の作曲した音楽が流れるオープニングは鳥肌ものだ。これをいきなり白黒の世界しか知らない子どもが見たのだから、強烈なカラー体験になったことは想像していただけるだろう。
日立のキドカラーがやって来た
話を1968年(昭和43年)に戻そう。
この年は三億円事件が起きて、3億(!)という金額の宇宙的な大きさに気絶しそうになったり、川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞して、漫画しか読まない僕でも誇らしかったり、といろいろな事件があったが、カラーテレビに関しても画期的な年であった。
同じ町内のKやHだけでなく、他の子どもからも「僕んち、カラーテレビになったよ」という自慢話がちらほら出てきた。そしてついに同じ年に、僕の家もカラーテレビを買ったのである。
といっても僕がおねだりしたわけではない。きっかけは家の新築だった。それまで住んでいた家屋は、戦争で焼けた後、おじいさんが廃材を集めてきて建てた家だった。それを壊して、おとうちゃんが新しく建て直したのである。
新しい家屋にはおとうちゃんの好みで、初めて洋間というものがこしらえられた。板張りの床、ソファ、シャンデリア風の照明、レースのカーテン、形だけだけれども暖炉、そして作り付けの棚には美術全集。テレビドラマでしか見たことがないモダンな部屋ができあがった。おとうちゃんは、その洋間を完璧なものにするためにカラーテレビを買ったのではないかと思う。
新しい家が完成したのが1968年(昭和43年)の暮れだったから、ちょうど冬休みだ。近所のいとこも新しい家を見ようとやって来て、みんなで洋間で遊んでいると、そこに電気店の人がカラーテレビを運んできたのである。カラーテレビを買うなんて一言も聞いていなかったので、これが年の瀬のウキウキした気持ちのクライマックスとなった。
我が家にやってきたカラーテレビは日立のキドカラーだった。
当時はナショナルのパナカラーが一番有名だったし、Kの家で見たビクターもシブいと思っていたのだが、なにせ突然カラーテレビが家に来てしまったのだから、親に文句も言えない。
実は僕の家の前には、通りをはさんで日立の電気店があり、常々
「電気製品は、向かいの◯◯さんで買わないと体裁が悪い」
とおかあちゃんが言っていたので、“大人の事情”も分かっていたのである。
しかしキドカラーも悪くなかった。パナカラーほど有名ではなかったけれど、キドカラーの宣伝も力が入っていた。なにせ飛行船の“キドカラー号”を飛ばしていたくらい。飛行船は岡崎にも飛んできて、ちょうど授業中に小学校の校舎の上を低空で通過ときには、初めて見る飛行船の圧倒的な姿に感動したものである。
キドカラーは性能でも悪くなかった。カラー調整は、Kの家のビクター製と違って、緑のラインがブラウン管上ではなく、チャンネルの上の専用の小さいディスプレイでできた。これは進化した技術だ、とニヤリとした。
UHF放送が受信できるチューナーもついていた。これでUHF放送が新しく始まったことを知ったわけであるが、ラジオのようなダイヤルをぐるぐる回しても、受信できるのは新しくできた中京テレビだけ。まだ放送時間が短く、やっていても他の局のお下がりのレトロな番組の再放送ばかり。UHFはオマケにすぎなかった。
しかしVHFなら愛知県はNHKを含めて5チャンネルあった。これらが、これからはカラーで見られるわけである。この日からキドカラーの前にかじりついたことは言うまでもない。