第14回 近所の篭田公園の思い出
絵と文 / 牧野良幸
子どもが遊び、催しがおこなわれた篭田公園
僕が子どもの頃(1960年代、昭和40年代の前半)の遊び場と言えば、家のすぐ近くの篭田公園だった。当時岡崎の中心街だった康生という地域の端に位置する公園だ。
篭田公園は場所の良さに加えて広さもそこそこあったので、いろいろな催しも定期的におこなわれていた。もっとも催しがない時の篭田公園は普通の公園にすぎなかった。子どもたちが遊んでいるか、康生や伝馬通りといった繁華街に向かう人が通り過ぎるくらい。普段はひっそりとした公園だ。
当時の篭田公園は、イラストに描いたとおりおおまかに二つのゾーンに区切られていた。
東側となる広い部分は一面が土の広場。野球をしたり缶蹴りをしたり、あと岡崎の子どもだけの遊びだったかもしれないが、“いっぽとせ”や“キンタマ”(品のない名前だ)といった遊びをしたりした。補助輪を外して自転車に乗る練習することもあれば、グライダーを飛ばしたり、正月なら凧揚げをしたこともある。
ここでは子どもが遊ぶだけではなかった。今風に言えば多目的空間でもあった。突如テントが張られ遊び場がなくなってしまい憎たらしかった盆栽の展示会(とはいえ盆栽を眺めて歩いたが)、岡崎中の小学生が工作を出品した“おかざきっこ展”、チンドン屋の大会など、いろいろな行事がおこなわれた。夏の夜には野外映画上映したこともある。ちなみに年に数回犬のウンチを踏むのもここであった。
もう一つのゾーンは西側、コンクリート製の“篭田号”(と呼ばれたと思う)で区切られた内側で、子どもが遊ぶための場所だ。一方にローラースケート用にコンクリートが張られていた(滑っている子どもを見たことがなかったが)、もう一方には滑り台やブランコ、鉄棒など定番の遊具が設置されていた。
そこに白いコンクリート造りの造形物で、登ったり滑ったり穴にもぐったりできる遊具もあった。これは石屋であると同時に彫刻家でもあった僕のおとうちゃんがデザインしたものだった。それを僕は成人してから本人に聞いたので、当時は知らずに遊んでいたのであるが。
公園の隣の駄菓子屋のジオラマに魅せられて
篭田公園と一緒に思い出すのは公園の横にあった駄菓子屋である。店の名前は忘れてしまった。電波堂という有名な電気店から市民会館の方面に数件並んでいた店舗の一番端、公園の隣に位置する店で、子どもたちが遊びの合間にジュースや花火などを買いに行った駄菓子屋だ。
篭田公園からその駄菓子屋に行くには子どもだけが使う近道があった。公園と家屋を区切っている金網の下をくぐって行くのである。金網をくぐって狭い通路に出ると、店の横に小さい人口池があって、そこにジオラマがこしらえてあった。
ジオラマは駄菓子屋の主人の趣味なのか、子どもたちの興味を引くためだったのかわからないが、天然の岩を地面に見立てて、精巧な鳥居や建物や車などがレイアウトされていた記憶がある。これが金網をくぐってすぐ、子どもの目の前に現れるのだから、お菓子を買いに来たことをしばし忘れて見入ったものである。
その駄菓子屋も1970年代になるとなくなった。僕も中学生になり篭田公園で遊ぶこともなくなった。おかあちゃんとバレーボールの練習をしたくらいか。成長すると、篭田公園は繁華街へレコードや本を買いに行く“通り道”にすぎなくなってしまったが、それもまた思い出深い。
夕暮れには薄暗い公園の真ん中を歩くのが楽しかったし、真夏は太陽を避けるため樹々の下をすり抜けた。昔とくらべて、子どもの姿を見かけることは明らかに減ったが、それでも誰か遊んでいれば昔の自分を思い出したものである。
2019年、新しくなった篭田公園にオカザえもんさんと行った
この篭田公園が今年2019年にリニューアルされた。
僕は1980年代の始めから関東で暮らすようになったものの、盆暮れには毎年岡崎に帰省していたので、実家からフラッと康生へ出かける時はいつも公園内を通っていた。なので40年近くの間、篭田公園の変貌を見てきたが、リニューアル後の公園を初めて見た時はびっくりした。
公園内は芝生が綺麗に広がり、かつて子どもの遊具があった場所にはテーブルなどが置かれた。子どもだけの遊び場から市民の憩いの場となった感じだ。
その時帰省したのは、岡崎のタウン誌『リバーシブル』がこのエッセイを掲載してくださるという話になり、その取材もかねて訪れたのだった。取材では岡崎のゆるキャラ、
オカザえもんさんも一緒に歩いてくださった。篭田公園に作られたテーブルに
オカザえもんさんと座っていると、公園が新しい価値観で生まれ変わったことを実感せずにはいられなかった。古い思い出の詰まった篭田公園もいいが、やっぱり未来を感じさせる篭田公園のほうがいい。
オカザえもんさんと新しい篭田公園を歩く。横文字がオシャレである。