第2回 鼻血を出しても欲しかったグリコの懸賞品
絵と文 / 牧野良幸
昭和40年代のはじめ、つまり1960年代の中頃、子供にとってチョコレートはちょっとした贅沢品だった。当時の僕の小遣いは1日に5円か10円だ。小学校の学年が上がるにつれ最終的には1日20円くらいに上がったと記憶しているが、チョコレートは30円以上したと思うから小遣いでは買えない。親に買ってもらっていた。
当時は今ほど多様にチョコレートはない(バレンタインデーももちろんなし)。その中で一番人気だったのはグリコのアーモンドチョコレートだろう。アーモンドとチョコレートの組み合わせはだんぜん美味しかったし、何よりカードを集めてもらえる懸賞品で、子どもの心をガッチリとつかんだのだった。今回はその話を書こう。
グリコの懸賞品“おしゃべり九官鳥”
もともと江崎グリコはキャラメルにオマケをつけていて、ライバルだった森永のキャラメルよりも子どもの支持はあった。“一粒300メートル”であろうとなかろうと構わない。子どもはオマケにつられてグリコのキャラメルに手を出した(たまには気分を変えたくて森永のキャラメルも買ったが)。
そのキャラメルのオマケ以上に独創的で人気になったのが、懸賞品である。懸賞品とは一定の応募券を集めれば、もれなくもらえる賞品だ。抽選と違って確実に手に入るのだから、欲しい人は応募券を一生懸命集めることになる。
最初は1965年(昭和40年)の“おしゃべり九官鳥”だと思う。その時、早生まれの僕は7歳。小学二年生であるが、せっせとカードを集めて“おしゃべり九官鳥”を手に入れたことを覚えている。
それは台所のテーブルの上かもしれない。青いプラスチックのボディはツルツルとして光沢を放っていた。頭の後ろについている紐を引くと“おしゃべり九官鳥”が何か喋る仕組みだ。どんな言葉を喋ったかまでは覚えていない。
“おしゃべり九官鳥”を手に入れるのに苦労した記憶は残っていない。そのせいか飽きるのも早かったのではないか。同じ懸賞品だった小さいサイズの“おしゃべり九官鳥”も手に入れたのだが、こちらは二匹の口ばしの中に磁石が入っていて、お互いが寄せあう仕組み。単純だけれどゆらゆらと揺れて安定しない動きが面白かった。
第2弾は“おつかいブル公”、ラジコンタイプとリモコンタイプ
翌1966年(昭和41年)になると、グリコは次の懸賞品を打ち出した。ビートルズの来日で日本中が騒然とした年、子どももグリコの懸賞品で騒然としたのである。今度は“おしゃべり九官鳥”よりはるかに高度な“おつかいブル公”である(別にボディの模様が違う“わんぱくブル公”という懸賞品も出た)。
“おつかいブル公”はリモコン操作で走行する。しかしただ動くだけでは小学三年生は惹かれない。口を開けて目の前にある物(チョコレートの箱など)をくわえる動作もできる。くわえたまま、また自分のところに戻ってこさせる。たしかに“おつかいブル公”だ。当時市販のオモチャで、これほど面白みのある製品はなかったのではあるまいか。
“おつかいブル公”から懸賞品が2つのタイプに分かれた。これは集めるカードの数で決まる。上位モデルがラジコン(“ラジオコントロール”の略、つまり無線)タイプ、下位モデルが有線のリモコンタイプ。どちらにしても“もれなく”もらえる。
最初に書いたとおり、この“もれなく”というところがミソであった。当時の一般的な懸賞は出しても当たることのまずない抽選方式。「抽選に応募するのは幼稚なガキだけ」とガキの僕ははっきり放棄していたのである。
しかしグリコの懸賞品はカードさえ揃えば“もれなく”もらえる。結果が保証されているなら、血のにじむような努力もいたしましょう。それが子どもの心に火を点けた。
欲しいのは当然上位機種のラジコンタイプである。当時ラジコンは男の子の憧れであった。ラジコンの車や飛行機はすごく高価で、“ラジコンは金持ちの子どもが買うもの”というのが常識だった時代だ。“おつかいブル公”のラジコンタイプを狙うのは、僕だけでなく、日本中の庶民の子どもの共通認識だったはずである。
カードを集めるには、ひたすらアーモンドチョコを買うしかなかった。僕も毎日1個の約束で買ってもらっていたと思う。カードは特定の4枚が揃って1組となる。しかしどんなに買っても、同じカードばかりがダブり、ある特定の1枚が出ないのである。結局、どんなに買ってもラジコンタイプをもらえるだけのカードは集まらず、〆切が迫る。リモコンタイプで妥協したのだった。
「郵便は自分で出しなさい!」お巡りさんがヘッドロック
リモコンタイプでも嬉しいことに変わりはない。揃ったカードは郵便でグリコに送る。当時、郵便物を出すなんて、年賀状以外ではなかった僕であるが、クイズの応募でときどき出すことがあった。
それで思い出す事件がある。僕がいつも使っていたポストは、町内の端にある交番の前にあるポストだった。歩けば3分もかからない。その日もポストに郵便を出しに行こうと、友達と家を出た。“おつかいブル公”の応募券だったかもしれない。
家を出たときに、たまたまお巡りさんが2人歩いていたのである。
「お巡りさんは、あそこの交番のお巡りさん?」と僕はきいた。
「そうだよ」
「では、すみませんが、この郵便を交番の前のポストに入れておいてもらえませんか?」
「どうして?」
「これから交番に帰るんでしょう、ついでにと思って」
「そういうことはね……」
と言うや、お巡りさんは僕にヘッドロックをかけてきた。
「自分で出しなさい! 大人を利用しちゃいけないだろ?」
「はい……」
グリグリグリ〜。お巡りさんにヘッドロックをかけられたことがある人間はそんなに多くないだろう。貴重な経験であった。もちろんお巡りさんの制服の匂いを嗅ぎながら、猛省したことは言うまでもない。郵便は自分で出してきた。
話を“おつかいブル公”に戻そう。
家に“おつかいブル公”が届いた。嬉しい。青いボディをさっそくチェックする。口を開いて大きな頭の中を覗くと意外と空洞だらけであった。胴体のみが重い。その胴体からモーターの匂いがする。関係ないけど、当時の子どもにはマブチモーターの匂いと、プラモデルの塗装用のシンナーの匂いが二大快感だった気がする(シンナー遊びはやってませんけど)。
こうして“おつかいブル公”を手に入れたことは嬉しいが、やはりリモコンタイプには不満だった。楽しみにしていた、口で物をくわえることもやってみた。しかしリモコンでは、自分もブル公と一緒についていかねばならず、“おつかい”にはならなかったのである。やっぱりラジコンのほうがいいよう、と悔しく思った。
第3弾は“せっかちくん”と“オトボケくん”
グリコの懸賞品の進化は終わらなかった。続く1967年(昭和42年)に出たのが“せっかちくん”と“オトボケくん”だ。
今度は喋る人形である。それも普通に喋ったのではあたりまえ。“せっかちくん”はセリフを早く喋る。“オトボケくん”はゆっくり喋る。それぞれに2タイプあって、上位モデルはテープレコーダーを内蔵していて自分の声を録音でき、それぞれの声で再生できた。大人でさえテープレコーダーを持っていない時代、子どもにはすごすぎる懸賞品である。下位モデルは、あらかじめセットされた言葉を再生するにとどまった。
ここでも上位モデルが憧れだ。僕も小学四年生となり、“おしゃべり九官鳥”の頃に比べるとずっと大人びていたのであるが、それを見越したかのように、グリコも高度な懸賞品を出してくるのだ。グリコ、恐るべしである。
問屋からチョコレートをダース買い、そりゃあ鼻血も出るでしょう
そこでこちらも高度な(?)作戦に出た。どうせ毎日、親に1個買ってもらうのなら、まとめて買ったほうが親も楽ではないか。それで、おかあちゃんに掛け合って、チョコレートを問屋からダースで買うことにしてもらったのである。
小学四年生、早生まれなので9歳であるが、そんな子どもが問屋で買うことをどうして知っていたかというと、町内の友だちの家が駄菓子屋をやっていたので、遊びに行っている間に問屋で仕入れることを知ったのだろう。一般の人でも問屋に行けばダースで売ってくれることを、ここで初めて知った。
おかあちゃんと僕で決めたチョコレートの置き場所は、なぜか階段だった。下の方の段。しかし普通お店でしか見ることができないチョコレートのケースが家にあるというのは、それだけで感激ものの光景であった。
「1日1個だよ! まあくん(兄貴のこと)と2人で食べるんだからね」
とおかあちゃんは言った。僕も子どものプライドにかけてそれは守る自信があった。読者の方は信じないかもしれないが、“全部の封を開けてカードだけ抜き取るのはガキのやることだ”というプライドが子どもなりにあったと思われる。
しかしそんな記憶も、自信がなくなる事件を書かなくてはならない。
ある日、突然鼻血が出てきたのである。“チョコを食べすぎると鼻血が出る”。これは当時耳にしていたことであったが、迷信だと思っていた。しかし現実に鼻血が出たのだ。ショック。たぶん1日に何個もチョコを抜き出して食べていたのだろう。鼻血だけではない。このあたりから、高学年になるにつれて虫歯がどんどん増えていった。
鼻血と虫歯の一件は、僕にトラウマを残すことになる。この事件以来、僕はチョコレートにはいっさい近づかないようにしたのである。10代や20代の頃はチョコレートを絶対口に入れないようにしていた。普通にチョコレートが食べられるようになったのは40歳を過ぎてからだ。
“オトボケくん”も妥協で下位モデル
話をグリコの懸賞品に戻すと、チョコレートを問屋でまとめて買っても、やっぱりカードは揃わないのだった。〆切が来るまで、1ダース、また1ダースと買い続けていたと思うけど、それでも揃わない。“せっかちカード”も“オトボケカード”も上位モデルがもらえる30組が集まらないのである。例によってある部分のカードだけが出てこない。
またしても妥協するしかない。カード10組でもらえる“オトボケくん”の下位モデルにしたのである。いったいカードを30組集めることができた子どもが当時いたのか、いまも気になって仕方がない。
それでも“オトボケくん”が届いた時は嬉しかった。胴体の中を覗いたときに、厚手で透明の小さなレコード盤のようなものを見た記憶があるのだが、実際はどんなものが内蔵されていたかはわからない。いずれにしても、これで記録されている言葉を喋るのだ。
しかしこの“オトボケくん”もそのうちに飽きるのであった。どう考えても自分の声を録音できるテープレコーダー内蔵の上位モデルのほうがいいにきまっている。「自分のセリフを録音できたら、ああして、こうして……」とないものねだりをするばかりで、セリフがきまっている下位モデルに飽きるのは、例によって早かった。
この“オトボケくん”を最後に僕はグリコの懸賞品から離れることになる。このあとグリコが懸賞品を出したのかどうかは知らない。出していたとしても、さすがに小学生の高学年になると夢中になることはない。やはり当時の懸賞品は小学校低学年がターゲットだったと思う。
手に入れたグリコの懸賞品は、比較的すぐに処分してしまっている。今も残っているのは、それらを手に入れた時の甘美な記憶と、目の前までたどり着いていながら“あと1枚が出ない”という、応募カード集めの地獄の悶えである。そのせいか、以後その種の応募には近づかない体質となってしまったのは僕だけだろうか。