第5回 駄菓子屋の思い出と“三角ババア”の話
絵と文/牧野良幸
駄菓子屋の思い出
“駄菓子屋”という言葉は昭和の代名詞としてよく使われる。確かに僕が小学生の頃は駄菓子屋がかなりあった。昭和30年代から昭和40年代中頃にかけての話だ。
とは言っても、当時は子どもの間で“駄菓子屋”という呼び方はしていなかった。地域によって違うかもしれないが、僕が住んでいた岡崎では、たとえば“三浦屋”というように店名で呼ぶか、“酒井さんの店”と経営者の名前を付けて呼んでいた。僕が“駄菓子屋”という言葉を知ったのは大人になってからで、それこそ駄菓子屋がなくなったあと、マスコミを通じてなのである。
僕が暮らしていたのは岡崎のなかでも市街地だったから駄菓子屋が多かった。いちばん多い時期なら町内にも4店ほどあったと思う。同級生で駄菓子屋をしている家もあった。小学校の学区まで範囲を広げればけっこうな数になっただろう。ちょうど今のコンビニのような感覚で駄菓子屋があちこちにあったのである。
ただ店構えは、今の映画に出てくるようなキッチュで賑やかなものではなく、質素な店が多かった。早い話が自宅の土間を店がわりに使用しているのだ、その家の間取りや事情が優先される。まあ昔は駄菓子屋があたりまえの存在だったから、特別な店構えをしていなくても子どもはやってきたのだろう。入りやすい店と入りにくい店はもちろんあったが。
駄菓子屋に行くと、店の奥では主人が相撲中継などのテレビをよく観ていたものだ。
「おーばーさん!」
と呼べば、商売っ気がなさそうな主人が、よっこらしょと腰をあげて出てくる。子どもに愛想を振りまくわけではない。いつも気だるそうに見えたのは、こちらが元気溌剌の子どもだったせいだろうか。いずれにしても普通のお店と違って、おばさん(もしくはおじさん)は生活感を思いきり漂わせていたのだった。
店の様子はよく覚えているのだけれど、さて何を買ったかというと、覚えているようで実はそれほど覚えているわけではない。5円のせんべいとか10円のドロップとか、定番と言えるものは思い出せるとしても、あれだけ並んでいた商品はさすがにもう思い出せない。僕らの世代だからチクロ入りの食べ物がけっこうあったと思うのだが。
玩具では、男の子だからピストルのオモチャ(コルト)とか“ぺっしゃん”(メンコのこと)はよく買った。冬になると凧も買った。ビー玉やコマ回しのコマも買った。しかしそれ以上の高度な玩具(“地球ゴマ”のような)となるとオモチャ屋に行くから、駄菓子屋で買うのはそれくらい。やはり食べ物が多かった。
“三角ババア”というディープな駄菓子屋
さて、子どもの頃たくさんあった駄菓子屋のなかで、僕がいちばん記憶に残っているのが“三角ババア”と呼んでいた店である。さすがに“三角ババア”というのは店名ではない。子どもの間で代々伝えられていた愛称である。
なぜ“三角ババア”と呼ぶのか。その由来はわからなかった。おばあさんの顔が三角形だからでもなさそうだ。店が三角形のかたちをしているわけでもなかった。結局誰も由来を知らないまま上級生から下級生へと伝えられていたのである。
“三角ババア”は一風変わった駄菓子屋だった。場所は僕が通っていた小学校の近くにあった。そこは民家ばかりのなんの変哲もない通学路にすぎない。しかも“三角ババア”の家は道路に面しておらず、民家の間を入った奥まったところにあった。
普通の木造の平屋で店構えはない。看板もない。だから店名もなかったと思う。それで上級生の誰かが“三角ババア”というあだ名を進呈したのかもしれない。
ガラス戸を開けるといきなり六畳ほどの部屋で、靴脱ぎ場が半畳ほどある。そこだけが土間で、あとは畳敷だ。そこが“三角ババア”の店なのである。畳一面に駄菓子や玩具が並べてある。陳列ケースなどもない。
部屋一面にお菓子や玩具が広げられた光景は、駄菓子屋に慣れている子どもにも異様であった。古い家屋だから薄暗い。そこに駄菓子に埋もれるようにおばあさんが座っている。もちろん「いらっしゃい」といった挨拶はなし。子どもが半畳ほどの土間から身を乗り出してお金を出すのを黙って受け取るだけである。お菓子を買ってから陽光の当たる外に出ると、ちょっとホッとしたものである。
この不気味さが子どもには面白かったのだろう。“三角ババア”は子どもたちに人気だった。学校の下校時にはよく寄ったものだ。3〜4人も入れば土間はいっぱいになったけれども、いつも子どもでいっぱいだった。
“三角ババ”がその後どうなったかは知らない。昭和45年(1970年)になると僕は中学生になり“三角ババア”には行かなくなった。それと合わせるように、この頃から急速に町の駄菓子屋が消えていったように思う。自分が中学生という“大人”になったせいかもしれないが、都会的なお菓子屋が目につくようになった。高度成長期で人の生活も町の風景も変わったのだった。“三角ババア”もおそらくほかの駄菓子屋と同じく、その頃になくなったに違いない。
ただ高校か大学の頃だったか、同じ小学校出身の年下の人と話をしている時に、突然“三角ババア”の名が彼の口から出てきた時は驚いた。駄菓子屋が前時代的なものとして葬られた70年代に、いきなり“三角ババア”という言葉だけが飛び込んできたのだから、懐かしさより驚きのほうが大きかったと言えよう。
後輩が知っているのだから、“三角ババア”はどうやら僕の卒業後も数年は営業をしていたと思われる。それはそれでビックリしたが、それよりも“三角ババア”という名前を、その後も小学生がずっと伝え続けてきたことのほうに妙な感動を覚えた。小学生の心をここまで捉えるとは、やっぱり“三角ババア”はディープな駄菓子屋だったのである。