僕の昭和少年時代(絵と文 / 牧野良幸) 第7回 男の子を熱くしたスロットカーとホットウィール

2019/04/23掲載
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第7回 男の子を熱くしたスロットカーとホットウィール
絵と文/牧野良幸
子どもも大人もスロットカー
小学生低学年のときにスロットカーが大流行した。スロットカーとはモーターでサーキットを走らせるプラモデルのようなクルマである。プラモデルと違うのは電池を積んでいないことだ。
サーキットにはコースごとに細い溝(スロット)が付けられ、その両側に電線がはられていた。スロットカーはそこから電気を受けて走る。ちょうど電車が架線からパンタグラフを使って電気を得て走るのと同じ仕組みである。リモコンで操作できるのはスピードだけで、クルマを左右へ動かすことはできない。
このような仕組みだからスロットカーは家で遊ぶものではなく、専用のサーキットにクルマを持って行って遊ぶものだった。
調べてみると、日本で最初のスロットカーのサーキットは1964年にできたらしい。スロットカーは日本中で大ブームとなったので、岡崎のような地方都市にもサーキットができるのは早かったと思う。
そのころ僕は6歳か7歳で、小学校に上がったばかりである。だからスロットカーは2つ上の兄貴が買ってもらったのだろう。それを真似して僕も買ってもらったに違いない。
兄貴と僕はスロットカーについている電気を受けとるコレクター(ブラシ状になっている電線)を毛羽立てたりして手を加えていた。こうすると電気の流れる量が増えて速く走るというのだ。本当かどうかわからないが、子どもはこういうところを凝るのである。
サーキット場はおかあちゃんに連れられて
スロットカーを買ったら走らせなくてはいけない。岡崎には当時、模型店が2店あり、どちらもサーキット場を作っていた。
ひとつは僕の家のすぐ近く。歩いて数分のところにある模型店だ。1階が模型売り場で、2階をスロットカーのサーキットにしていた。この店はブームが去った後も、プラモデルを買いにお世話になったが、2階を使っていたのはその時だけ。サーキットのある2階に上がるのはドキドキしたものである。大人が集まる遊戯場に足を踏み入れるような感覚だった。
もちろんスロットカーを走らせるには料金を払わなくてはならない。小学校低学年である牧野兄弟にそれは無理だ。それでサーキットには、おかあちゃんに連れて行ってもらっていた。料金はおかあちゃんが払った。
2階は幅が3メートルほどしかない奥に長い部屋だった。そんなに広くないのでサーキットが部屋のほとんどを占めている。そこにみんながスロットカーを持ち寄って走らせる。当時は大人にも人気だったと言うから、大人と子どもが交じってやっていたのだろう。
コースは5コースくらいはあったと思う。ここでは全員でレースをするわけではない。空いているコースにスロットカーをセットして、おのおのが走らせるだけである。時間がきたら終了だ。このサーキットはそんなに賑わっていなかったと思う。ブームだから空いている部屋に作った、という感じだった。
これで本当にスロットカー・ブームだったのか、と思われるかもしれないが、ブームは確かにあったのである。それは岡崎にある、もう一つの模型店のサーキットの話をすれば納得してもらえるだろう。
マニアの熱気があふれるサーキット場
当時、岡崎でサーキットを設けていたもうひとつの模型店は、名鉄電車の東岡崎駅の近くにあった。僕の家から歩いて10分ほどの距離だが、小学生時代は学区が違うこともあって、いつも遊ぶ地域ではなかった。ただ遠征することは日常茶飯事。まあ用事があるときだけ出かけた地域だ。
この模型屋にもスロットカーを走らせに、おかあちゃんに連れていってもらったのである。
その模型店は夫婦で経営していたような記憶があるが、わけても女主人は子どもたちと親身になって話をする店主だった。だからプラモデル好きの子どもに慕われ、溜まり場にもなっている店だった。客が作ったプラモデルの完成品もショーウィンドウに展示していたはずだ。この店はスロットカー・ブームが去った後も、60年代を通じてプラモデル好きが集まるマニアックな店だった。
その模型店もサーキットをやっていた。こちらは1階の模型売り場の真ん中に設置されていた。それは本格的なサーキットで、宙返りするコースまであった。
本格的なのはサーキットばかりではない。ここではリモコンを握る客も本格的だった。最初のサーキット場のように、ちょっと遊んでみようかというレベルではない。あきらかにマニアである。熱気が違う。大人はもちろん、同じ年ごろの子どもでも“自分と違う”と感じたくらい。ここではレース大会も開催されていたはずだ。
こういう場所だったから僕は気後れしてしまった。多分少し走らせて、おずおずと店を出たに違いない。その後スロットカーを走らせにその模型店に行くことはなかった(プラモデルはたまに見に行っていたが)。何事も身の丈にあった場所が快適なのである。
ホットウィールでブームがふたたび
しかしそんなスロットカー・ブームもやがて終わる。気づいたらやらなくなっていたという感じだ。
嵐のようなブームが去った後は、どうしてあんなものに夢中になったのかなあ、と自嘲気味に思い出すのが常であるが、僕も小学校の高学年になると、スロットカーは完全に過去の出来事になっていて、もうあんなことに夢中になることはあるまいと思うのだった。
しかし歴史は繰り返す。それは小学5年生のときである。またクルマを走らせるオモチャに夢中になってしまったのである。
それがマテル社が発売したホットウィールだ。
ホットウィールはスロットカーと違ってモーターを積んでいない。電気で動くわけではなく、高いところから落としてその勢いで走らせる。少しでも早く、また長い距離を走れるように、車輪軸が針のように細く回転が滑らかになっていた。観賞用の金属製ミニカーと同じような大きさだったが、タイヤの回転力においては別物で、走りに徹したミニカーという感じだ。これが新鮮だった。
ただホットウィールは大人を巻き込んだブームにはならなかった(と思う)。今回は子どもだけの流行、それも僕の場合、町内の子どもの間だけのブームだった。たぶん誰かが買ったことから火がついたのだろう。
ホットウィールはコースも買わなくてはならない。コースは直線やカーブなどがパーツで売っており、自由にレイアウトできた。家で遊ぶわけであるが、やはり一人で走らせても面白くない。それで町内の誰かの家に集まって、一緒に走らせて遊んだのである。
それはモーターの匂いが漂う模型店のサーキットと違って、子どもが家で遊んでいる健全な風景であった。それでもホットウィールを「大人たちはスロットカーから足を洗ったのに、僕はまた始めちゃったな」などと後ろめたく思ったものである。
このホットウィールのブームもやはり終わる。町内の子どものブームならなおさら収束は早い。季節をまたぐまでもなくブームは終わった。
多分、どの時代の子どもにも同じようなブームが起きたはずだ。80年代に大流行したミニ四駆もそのひとつだろう。いつの時代も男の子はこういうものが好きなのである。僕の場合はスロットカーとホットウィールだった。どちらも懐かしい思い出である。
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