南波一海 presents ヒロインたちのうた 第1回 坂本サトル(前編)

坂本サトル   2016/09/01掲載
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南波一海 presents ヒロインたちのうた
第1回 坂本サトル(前編)
 記念すべき連載再開第1回目のゲストは、8月17日に2ndシングル「リングを駆けろ!」をリリースしたパクスプエラのプロデュースを手がける坂本サトルJIGGER'S SONとしてデビューからソロとしての活動、そしてDorothy Little Happyパクスプエラらのプロデュースに繋がっていく彼の音楽遍歴を、前後編にわたってじっくりと紐解いていきます。
中学生とか高校生がオリジナルを作ってもしょうがねえ
――音楽に触れるきっかけからお伺いしたいと思います。
 「いわゆる“お歌の上手な子”って言われてたような子供で。うちの実家は青森でりんご農家をやっていて、昔は近所の何軒かが集まって共同で出荷作業をしたりしていたんですよ。休憩時間とか暇じゃないですか。それで僕が呼び出されて、おじさんたちの前で余興みたいな感じで歌を歌ったりしていたんです。2歳のときに、当時すごく流行っていたピンキーとキラーズの〈恋の季節〉をフルコーラスで歌ったり」
――2歳から〈恋の季節〉を(笑)。
 「それがウケて、よく人前で歌わされてました。小学校1年生のときの学芸会で、1学年100人いるうち、99人が演奏してひとりが歌うっていう出しものがあって、それを歌うのが僕だったんですよ。そうすると、勘違いしちゃうじゃないですか。ある種の勘違いで、歌っていうのは自分にとって得意なものなんだと思って、極端な話、そのままずっと来ちゃった感じなんですよね。もちろん音楽的な挫折もありましたけど。だから“いつ音楽を始めましたか”とか“きっかけはなんですか”とか聞かれると困っちゃうんですよ」
――ずっと歌っていたから。
 「中学校に入ったら当然のように親父がギター買ってくれて、バンド作って、高校入って、大学行って。就職活動をまったくしていなくて、まわりがどんどん就職決まっていくなかで、コロムビアのオーディション(※1)でグランプリをとって、デビューが決まったんですよ。そこで初めて“プロになれるんだ”って思って。そういう地続きな感じですね」
※1 90年に開催された〈コロムビアレコード創立80周年記念アーティストオーディション全国大会〉。
――音楽で食べていこうとは思っていたんですか?
 「そういうわけではなかったです。音楽がずっと好きで、歌が好きでやってきたけど、不思議なもので、プロになろうとは思っていなかった。アメリカにプール付きの家を建てたいとは思っていたんですけど(笑)。就職の時期に、“俺はなにしたらいいんだろう”って思っていたところでグランプリを獲って、“これなのかな”と。でも、慎重でしたね。デビューしてもダメな人はたくさんいたから。当時は仙台に住んでいたんですけど、毎年仙台から誰かしらデビューするっていう時期だったんですよね。まわりの先輩が喜び勇んで東京に出ていっても、みんな1年くらいで帰ってきていた。これはイヤだなと。だから、いまだったらありえないんですけど、デビューが決まってもレコード会社に保留していただいて。自分のなかでGOサインを出してからデビューしたんです」
――バンドブームが落ち着くのを待った。
 「まさにそうです。それもあったし、曲作りに対する確固たる自信がなかった。どうすれば音楽業界でプロとしてやっていけるのかをちょうど掴みかけていた時期で、いまデビューしたら中途半端になると思ったんです。曲作りを含めて、確信を持ってからデビューしたいと。いまから考えると全然大したことない確信なんですけど」
――普通、そのくらいの年齢でレコードデビューの話をもらえたら浮かれますよね。
 「そのグランプリを獲った日の夜に、日本青年館の地下で打ち上げがあって。3位から順番に関係者に挨拶させられるんですよ。3位、2位のやつらが超浮かれていて。“明日からプロだ!”って。で、1位の僕らが“デビューしたくありません”(笑)。あとでレコード会社の人に“グランプリやんなきゃよかった”って言われました。思い出作りのデビューではないと思っていたので。うちの弟は舞い上がってましたけどね(※2)
※2 実弟の坂本昌人がバンドメンバーとして在籍。
――坂本さんがオリジナル曲を作り始めたのは、バンドを始めた中学生の頃からなのでしょうか。
 「いや、中学生とか高校生がオリジナルを作ってもしょうがねえなと思っていたんですよ。あの頃っていちばん音楽を欲していて、スポンジみたいにすべてを吸収していた。要はどんどんインプットをしていたんですね。いまはそれだろ、と。高校生なんて大した音楽聴いてないんだから、そこから出てくる音楽なんて大したことないに決まってる。いまは少量のインプットでものすごいアウトプットをするとか、天才はいるっていうことはわかりますけど、当時は自分の考え方が一番だと思っているので、高校生でオリジナルをやってるやつはバカだと思って軽蔑してました(笑)。だから初めて書いたのは19才のときですね」
――当時はどんな音楽を聴かれていたんですか?
 「僕が高校生の頃は80'sが花盛りで、イギリスでニューロマンティックがきていて。デュラン・デュランを筆頭に、カルチャー・クラブとか。打ち込みものがパーッと始まってきた時代ですよね。ヤマハがDX-7とかRX7っていう、高校生でも頑張れば買えるような打ち込みの機材を出して。そこから宅録に入っていくわけです」
――その時点で自分で録音を。
 「まだラジカセ2台でしたけどね。高校に入って最初に作ったバンドはドラムがリズムマシンでしたよ」
――かなり先進的ですよね。
 「そうそう(笑)。4人くらいでバンドやろうって集まって、ヘヴィメタが好きなやつがいて、ジャパンとかニューウェイヴが好きなやつがいて、僕はブライアン・アダムスとかKISSとかハードロックが好きで。共通点がないので、真ん中にありそうなデュラン・デュランはどうだという話になって」
――その真ん中がデュラン・デュラン(笑)。
 「じゃあやってみようってなったんですけど、ドラムがいなかった。そこでヤマハのRX7が出たので“これだ!”と。で、僕が打ち込みをやって、デュラン・デュランだけをやるバンドをやりました。青森のデュラン・デュラン(笑)。当時、どこに出ても珍しがられましたよ。時代はここまで来たのかと。もう30年以上前の話ですけどね」
――そして大学から仙台に行って、オリジナルを作り始める。
 「ようやく作り始めて。当時、大学生になって初めて子供ばんどを知って。最初の活動休止をする2〜3年前かな。ラジオを聴いて、ものすごい衝撃を受けまして。『FMリクエストアワー』(※3)ってライヴを流す番組だったんですけど、本番中にトラブルがあって、それをそのまま放送したんですよ。録音だったからカットできたんでしょうけど、当時はそんなことを知らないし。トラブったことをそのまま歌にしてライヴを続けたんですよね。“こんなことがありなんだ”と思って、遅ればせながら子供ばんどに傾倒して、BABANDってコピーバンドもやりました(笑)。馬場ってやつがヴォーカルだったので」
※3 70〜80年代にかけてNHK-FMで放送していた音楽番組。全国各地の放送局ごとに制作が行なわれ、異なる内容で放送されていた。
――そこで坂本さんがヴォーカルじゃなかったのは理由はあるんですか?
 「僕、ちゃんとヴォーカリストとして専任になったのって20歳くらいで。歌が好きでずっと歌っていたんですけど、当時はギターのほうが面白かったんです。でも、やっぱり歌いたいっていうのはあって。小学生の頃から世良公則さんが好きだったので、高校で青森のデュラン・デュランをやっていた頃は、8曲くらいギタリストとしてデュラン・デュランを弾いて、最後の2曲は僕が急にヴォーカルになって世良公則さんを歌ってました(笑)。でも、なんですかね……『ちびっこのどじまん』に出るような子供(※4)でしたけど、声変わりしたくらいから自分の声があまり好きじゃなくなって。歌は好きだけど、ギターのほうが面白いし、っていうふわふわした時期でしたね。だけど、うじき(つよし)さんを見て、ギターを持って歌うのはかっこいいなと思い始めて、そのへんから本格的に自分のスタイルに目覚めていったというか」
※4 74年にRAB(青森放送)ラジオ主催『ちびっこのど自慢』に出場。フィンガー5「恋の大予言」を歌い、“よく歌えたで賞”を受賞。
――大学生の頃は宅録はされていたんですか?
 「スタジオでバイトしていて、そこに16chのマルチがあったので、それを勝手に使ってました(笑)」
――それは夢が広がりますね。
 「広がりますよね。当時、仙台で自主制作でCDを出したのは僕らが初めてかもしれない。ケースの規格もなかったので、自分らで寸法を測って、紙の業者に発注して」
――演奏して歌うこと以外の興味もかなり強かったんですね。
 「そうですね。最近すごく思うのは、最初の衝動で宅録が好きになって、全部のパートを自分で作って。アレンジですよね。曲のトーンとかムードみたいなのを作り上げるのが好きで、結局そこに戻ってきたんだという気がします。いまは依頼されて楽曲を制作することのほうが圧倒的に多いんですけど、それがすごい楽しくて。もちろんヴォーカリストではありますけど、それだけでは満足できないんですね。ファンの人だけではなくていろんな方に“もっと坂本サトル自身の作品を作ってほしい”って言われますけど、“ごめん、こっちも楽しいんだ”っていう気持ちですね」
――話を戻して、いよいよJIGGER'S SONがメジャーデビューしますが、充分な修行期間を経て整った感じだったのでしょうか。
 「7割がたでしたね。もうちょっと待ってほしいけど、コロムビア的には待てないということで。ある年の12月に“今月中にこっちに引っ越してきてほしい”って言われて、家を慌てて探したんですけど、結局、メンバー4人中2人しか見つけられなかった。本当に待てなかったんだなと」
――慎重だったけど慌ただしく上京(笑)。プロの世界にデビューしてみていかがでしたか。
 「最初の1年でアルバムを3枚作ったんですよ。当時はまだレコード会社にお金がありましたし、コロムビアレコード創立80周年記念のオーディションでのグランプリバンドで、まぁ鳴り物入りだったんですよ。とにかくキャンペーンだのなんだのがものすごくあって。アルバム出すごとに日本1周か2周するくらいで……“こんなに飛行機乗れるのか!”と」
――そこですか!きついとかじゃなくて、飛行機に乗れて嬉しい(笑)。
 「嬉しい(笑)。こんなに家にいないものなんだとびっくりしましたね。川崎に住んでたんですけど、住んでる意味ないじゃんっていうくらい。でも若いし、体力もあったし、おバカでもあったので、やれたんですよ。いちばんすごかったのは、3枚目のアルバム(『幸せになりたい。』)は歌詞が1曲もできないまま合宿レコーディングに行っちゃったんですよ。河口湖だったかな。10日くらいの合宿中にゼロだった歌詞を11曲全部書いて、歌まで録り終わって。あの感じがプロとしての洗礼だったのかなと思います。泣き言はダメで、やるしかない。できなかったら、ものすごいお金を無駄にするし、人に迷惑がかかる。プロっていうのはこういうことかと強烈に刻み込まれました。いまの子はしっかりしているけど、当時は不完全なものもデビューさせていた気がするんですよ。そのなかで成長できた人は残っていくし、ダメな人はごめんなさい。それでも2年間くらいは面倒を見てくれた。そうやって鍛えさせてもらったし、恵まれていたとも思います」
――どんどんデビューしていくというのは、いまのアイドルと重なるところもありますね。
 「そうですよね。だけど、いまと違うのはデビューさせたからにはちゃんとお金をかけたところ。事務所に活動支援金みたいなのが支払われたりね。いまはデビューさせてみて、あとは知りませんみたいなところもある。余裕とか愛情が違うのかなとは思います。本当に当時はよくしてもらいましたね」
いかに飽きずに音楽をやるのかっていうのをずっと考えてきた
――JIGGER'S SONはそのスピード感で進んでいって6年で活動休止になります。バンドでやりたいことがやれたという感じなのでしょうか。
 「そうですね。7枚目の『バランス』が予定よりも早くできちゃったかなと。ハードなものソフトなもの、面白いことと真面目なこと、ありとあらゆるバランスが奇跡的に取れたアルバムが、自分で思っているよりも2年くらい早くできてしまったんです。“あれ、これはやることなくなったかもしれないぞ”と。それで最大限に悩んで、活動休止を決めちゃったんですね。メンバーとの意識のズレも我慢できなくなっていて。1年中あちこち行って、キャンペーンだ取材だテレビだって。戻ってきたら曲作って、レコーディングして、ツアーに行って。僕は365日、JIGGER'S SONの活動をしているんですけど、ほかのメンバーは、のほほんとしているわけですよね。僕が地方から戻ってそのままリハに行って、その間なにやっていたか聞いたら、“ドラクエやってた”と」
――ああ、なるほど。
 「いまだったら、それこそが面白いと思えるわけですよね。そこがバンドの振れ幅とか面白さになるわけで。だけど、当時は追いつめられていて。契約もそろそろ切れそうな予感がするし、思っていたよりも早く理想としていたアルバムができちゃった。“これからどうしたらいいんだろう?”って悩んでるときに、“ドラクエやってた”(笑)。その意識の差が、自分のなかでどうしようもなくなっちゃって、なにも生まれなくなっちゃったんです。なんとか自分の創作意欲をつつけないかなと思って、アマゾン川に行ったり、無茶苦茶したんですけど、ダメで。じつはデビューする前からソロでやらないかって声はかけられていたし、活動している間も“ソロでやったら?”って言うやつはずっといたんですけど、無視し続けてきて。でも、急に耳を傾けたんですね。現状を打破するには、音楽へのモチベーションを取り戻すには、ソロしかないんじゃないかと。で、みんなにバンドをお休みしたいと告げました。そのときのメンバーとのやりとりも含めて、いろいろと不十分だったんです。そこからこじれて、再結成まで随分と時間がかかったんですけどね……。でも、ソロをやると決めたときの目の前の開けかたはすごくて、夢中になっちゃったんですね」
――まず、アマゾンに行かれたんですね。
 「瀬木貴将って日本で唯一のサンポーニャ(※5)のプロ奏者がいるんですけど、彼は18歳でフォルクローレの本場ボリビアに行って、向こうでデビューして、ゴールドディスクまで獲ったんです。それで、凱旋みたいな感じで、95年に日本でデビュー(『VIENTO〜風の道』)したんですよ。そのときに知り合ってからの仲で、彼は冒険旅行っていって、旅先で曲を書くんですね。ちょうど僕がバンドで悩んでいたときに、“アマゾン川を源流に向かって遡る旅に行くんだけど一緒に行かないか?”って誘われたんです。それで一週間行きました。ちっこい船で移動して、基本は野宿」
※5 主にフォルクローレなどで使用されるボリビアの楽器。笛の一種で、長さの違う筒が束ねられたような形状。
――うわー。
 「で、川幅に沿ってビシッとワニがいるんですよ。夜にライトをつけると赤い目がビシッと並んでる(笑)。すごい体験でしたね。初めて死んでもいいと思いました。船に寝転がってなにもない空を見て、右と左はジャングル。オウムの群れが飛んだりしていて。ここで死んだら、ここの生態系に入れるから、死が無駄じゃないというか。普通は骨壺に入れられて、行き止まりじゃないですか。だから日本にいると死ぬのが怖いのかなって。だけど、このジャングルだったら、死んで、腐って、食べられて、永遠のサイクルに入れるんじゃないかなって。帰りの飛行機では“やっぱ死ぬのはこわい”って思ったんですけど(笑)」
――我に返った(笑)。
 「アマゾン行ったのに、なにもなかったなって思いましたけど、いま考えると死生観とかは影響がありますよね。ピラニアがいる川に飛び込んだときの勇気とか。現地ではポピュラーな魚だけど、怖いっていう先入観がある。そこに飛び込むのか……飛び込もうっていうような、象徴的な出来事がいくつもあって。それが少しは役に立ってるとは思いますけど、当時はなにをやってもダメでしたね」
――ソロになって可能性が見えたというのは、メンバーの楽器編成や演奏に縛られることがない、というところが大きいのでしょうか。
 「まさにそうですね。自分がいままでやりたいと思った人とやれるし。あれもできるこれもできると思ったら曲があっという間にできていきました。そのとき、JIGGER'S SONはすぐに復活するつもりでいたので、ソロでライヴをするつもりはなかったんですよ。宅録魂が再燃していたので、制作メインの活動をしたいと思っていて。でも、ソロ第1弾シングルみたいなのがなかなかできなくて。スタッフに聴かせても“いいけど、もうちょっと頑張ってみようか”と。やっているうちに2〜3ヵ月と過ぎていって、そうこうしているうちに、バンドのメンバーがアルバイトを始めるわけです。契約も切れちゃったので」
――生活しないといけないから。
 「それである日、弟が配送のバイトを始めたんですけど、怪我をしちゃったんですよ。その時にハッと思って。僕がソロをやるって言ったから弟はバイトを始めて、怪我をした。それって僕が怪我させたのと一緒だと思ったんですよね。もしかして、大変なことをしちゃったんじゃないかと。結婚しているメンバーもいたので、その人たちの生活を激変させてしまったんだと。自分は同じようにやってるからなにも変わらなかったんですけど。それに気づいたら、書いても書いても“これだ”っていう曲ができなくなって。だから、朝起きたらリュックに飲みものと食べもの入れて、とにかく都内をずっと歩きました。ハッとしたらメモをとって、歌詞を書いて。それを何日も続けると、体重が減っていくんですよね。わけもわからずやっていたんですけど、それって、メンバーがバイトで頑張っているのをなにかで体感したかったんでしょうね」
――なるほど。
 「そんなことをしているうちに8ヵ月くらい経っちゃっていたんですね。そこで初めて、取り返しのつかないことをしてしまった、浮気がバレたとかそういうレベルじゃない、とんでもないことを僕はやってしまったんじゃないか、と。それまでの人生の中で最深のところまで落ち込んでしまった。そのときに、それまで僕は誰かのために曲を作ってきたんですけど、落ち込んだ自分を励ます歌を作ろうと思って、〈天使達の歌〉を書いたんです。ソロデビューのために書いた曲の17曲目だったんですけど、この曲を書くためにそれまでの16曲を書いたんじゃないかっていうくらい、あっという間に歌詞ができたんですよね。10分くらいで。歌詞って、サビだけ出てきてそこからAメロBメロを考えるとか、冒頭だけはあるとかが多いんですけど、あの曲は1行目からそのままスーッと出てきたんです。こんなことがあるんだと思いました。歌詞を書いてる時点でメロディも浮かんでいるので、作曲も終わっていたんですね。ギター1本でデモを録って、レコード会社の人に聴かせたら、“これだ”と。初めてでしたよ、選曲会議でアンコールがかかったのは」
――それくらい決定的だったんですね。
 「それでデビューが決まりました。のちに一緒に会社(ラップランド)をやることになる小林(英樹)っていう名物プロモーターがコロムビアにいたんです。去年死んじゃったんですけどね。彼が、今回はストリートでもなんでもいいから、この歌をみんなに届けたいって言うんですよ。弾き語りをやろうと。おれは弾き語りなんてやったことないし、ダサいと思っていたのでやりたくなかったんですよ」
――制作だけのつもりだったし。
 「そうです。だけど、小林に騙されるような形で路上とかでやったんです。最初は呑み屋で歌ったんですけど、信じられないくらいウケて。マイクとか通さなくても、歌っていうのは届くんだなと。悔しいけど、貧乏くさいと思っていた弾き語りが自分には合ってると気づかされました。気がついたら、最初の数ヵ月間でJIGGER'S SONの6年分のライヴの本数を抜くくらいで。3ヵ月で200本くらいやりました。多いときで1日8本とか。当時、弾き語りと言えばこの人って言われたりしたけど、始めたばっかりだったので申し訳なかったですね」
――「天使達の歌」が話題になった頃にはバンドメンバーとの気持ちの整理はついていたんでしょうか。
 「いや、ソロで名前が売れれば、前よりもいい状況でバンドが復活できると思っていました。だけどやっぱり、それは僕の勝手な思い込みで、みんなの気持ちはどんどん離れていたんですね。時間が経つほど、みんなにも大事な違うものができて。ソロをやって2年くらいしてからみんなに会ったときに、もうやれないんだと気づいて、2001年に解散ライヴ(※6)をしました」
※6 2001年9月21日、東京 Shibuya ON AIR EAST(現・Shibuya O-EAST)で行なわれた〈決着〉。
――そこからソロとしての活動が継続しているわけですね。
 「でも、血液型は“バンド型”だと思っているので(笑)。人とやるのが好きなのでいくつかユニットをやっていますけど、アマチュアの頃からやっていたJIGGER'S SONとは圧倒的に違いますね。僕の場合は、いかに飽きずに音楽をやるのかっていうのをずっと考えてきたんだと思います。ワクワクしなくなると友達と一緒になにかをやったりして、テンションをキープしてきたのかな。確かにソロとしての活動は継続してきましたけど、あちこち寄り道もいっぱいさせてもらえたから続けてこられたんだなと。音楽がつまらなくなるのがこわいんですよ。作りたいって思えなくなるのがこわい。逆にその大元さえ揺らがなければ大丈夫だと思っています」
後編に続く →
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