南波一海 presents ヒロインたちのうた第2回 坂本サトル(後編)
(Dorothy Little Happyの)きっかけは自分の贖罪の気持ちですよね
――そのワクワクするうちのひとつが、Dorothy Little Happy。
「ようやく来ましたね。すいません(笑)」
――それが2010年のことだと思うんですけど、最初にこの話が来たときは断っていたんですよね。
「ずっと断っていました。昔からの恩人に、こういうのがいるんだけど、手伝ってくれと。話を聞いてみたら、ものすごく若いんですよ。当時、いちばん年上の(白戸)佳奈が高1かな?下は中1で。そんなの無理。最初のプロデューサーって大事なんです。忘れられないし、その人のやりかたってよくも悪く染みついちゃうから、最初の人はイヤだなと。大人だったら“あとは自分の責任でしょ”って突き放せるけど、子供ですから……。これはこういう場所では初めて言うんですけど、前妻との間に2人子どもがいまして、上の子が佳奈と同い年なんですよ」
――そうなんですね。
「幼い子供を残して離婚しちゃったっていうのを突きつけられた感じがして、困ったんですよね。お前はこのくらいの子の子育てを放棄したじゃないか、もう一回やれって言われている気がして。誰に言われているのかわからないけど。だから荷があまりにも重いと思って、断っていたというより逃げていたんです。でも、その恩人に“もうお前がやるもんだという前提で動いてるから”って言われて。ここで断ったらまた置いていくのか、って自分の人生と重ね合わせちゃって、やるからには覚悟を決めようと。やるからにはやる。音楽業界で一人前に育てなきゃいけないっていう気持ちがありました。自分のブレーンに電話してチームを作って、仙台の放送局にも、出版を振るから取り上げてくれと」
――曲を作るだけじゃなくて総合プロデュースですね。
「当時はそうでしたね。で、グループ名が“B♭”って名前で、そのおっさんのジャズバンドみたいな名前はなんなのと思って」
――渋い名前ですよね(笑)。
「B♭って押さえにくいし(笑)。で、昔、JIGGER'S SONでDorothy Little Happyっていうキューピーの悪い子版みたいなキャラクターを作ったんですよ。ツノをつけて、おっぱいつけて、尻尾つけて、そういう人形を作ってもらって、ジャケットに撮ったり、グッズで売ったりしていたんです。その名前は僕がつけたんですけど、気に入っていたので、当時のスタッフと話しているときに“たとえばDorothy Little Happyとか”って言ったら、“それいいですね!”ってなって。そこがスタートです。もちろん音楽的にも、じゃあやるぞっていう気持ちはありましたけど、本当のきっかけは、やらざるを得ない状況に外堀が埋められていったというのと、自分の贖罪の気持ちですよね」
――いざ始めてみていかがでしたか。
「これがすごく面白かったんです。楽曲提供っていうのはそれまでも何度かやっていたんですけど、トータルで考えていくじゃないですか。アイドルって楽曲だけじゃダメで、本人たちの表情があって、振り付けがあって、というところで、歌はひとつの役割なんですよね。劇伴に近いというか。主役は歌じゃない。ちょっと横にいて、引き立てる。しかも、こっちがいろいろ考えて用意すると、あの子たちが僕の想像を遥かに超えていくんです。いまから世に出ていく子供たちが、日に日に成長しているのがわかる。みるみる力をつけていってどんどんお客さんが増えていったのも面白かったですね。
〈デモサヨナラ〉 は、じつはインディーズの3枚目のシングルとして書いていたんです。事務所が流通経路を持っていなかったので、インディーズ時代の2枚は僕の経路を使って出していたんですよ。なので、注文書
(※1) も僕が作っていたんです」
※1 CDショップからの受注を得るための作品紹介書類。
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自分がグッときたくて書いている
――すごい(笑)。BounDEE(現スペースシャワーネットワーク)でしたよね。
「BounDEEの担当者も昔からの知り合いで、“サトルが注文書を作って”って言われて、イラストレーターで作りました(笑)。注文書はいついつまでに出さないとリリースが間に合わないって言われたので、とりあえず〈デモサヨナラ〉ってタイトルだけまず決めて。卒業シーズンのリリースだったので“好きだけど、デモサヨナラ”“切ないなんちゃらかんちゃらのキラーチューン”みたいなキャッチコピーと宣伝文をバーッと作って締切に間に合わせたんですけど、実際にはそのときは曲が1秒もできていかなったんです」
――すげーー!
「注文書を先に作って、それから大慌てで曲を書きました。その頃にエイベックスから接触があって。事務所の人間ではないので詳しい経緯はわからないんですけど、注文書が出たところで、“メジャーデビューが決まった”って言われたんですね。まだインディーズ・デビューしてそんなに経っていないのにちょっと時期が早いなあと思いました。しかも初期のメンバーが辞めたりしていて、全然まとまりきってなかったんですよ。とはいえ、こっちにはメジャー・デビューを止める権限もない。それで、〈デモサヨナラ〉は急遽エイベックスから出すということになったんです。最初はミニ・アルバムでいくと。シングルだと思っていたのでびっくりしたんですけど、なんせ曲がないですから。それじゃあ〈デモサヨナラ〉と、それまでに作ってきた曲と、カヴァー曲を何曲か収録すればなんとかミニ・アルバムにはなるでしょうと。それで選曲も含めいろいろ考えていったわけですけど、締め切りギリギリになって事務所スタッフから“やっぱりカヴァー曲じゃなくてオリジナル曲でいきたい”と言われたんです。」
――それはまた急な展開ですね。
「マジですか、と。でも、それを引き受けちゃうんですね(笑)。いい曲作らなきゃなって。その頃はある種のトランス状態でしたから“やれる!やるぞ!”って張り切っちゃったんです。3日後には本人たちに音を渡して練習してもらわないとって。それでそこからの2日間でウワーッと作ったのが〈ドロシーの世界1周夏物語〉と〈部屋とパジャマと私〉でした。Twitterで“あなたを愛してる”って各国語でなんて言うか聞いて〈ドロシーの世界1周夏物語〉の歌詞に入れたり。だからじつはすごい手癖で作っているんですけど、歌詞で悪ふざけしたりして楽しかったですね」
――JIGGER'S SONの河口湖のセッションのような。
「まさに。あの追いつめられる感じは嫌いじゃないんです。そういうときにすごいものができるってわかっているので。ただ、〈デモサヨナラ〉という楽曲が後々あんなふうになるなんて思わなかったです」
――アイドル・ブームを象徴する曲になりました。
「いまも忘れられないのは2011年の1月に仙台のライヴハウスで〈デモサヨナラ〉をお披露目したんですけど、初演奏のときにファンの皆さんがすでに“オレモー”って叫んでたんですね。たまたま(コールを入れやすい)隙間を空けちゃった(笑)。1コーラス目で覚えて、2コーラス目で“オレモー”って。面白いなと思いました」
――いまでも2コーラス目からコールが入るのはそんな背景があったんですね。発売と震災が重なったのも忘れられない出来事です。
「あそこで自分のなかでも覚悟が決まりました。デビューが2011年の3月16日だったので。本人たちも被災しちゃいましたし。仙台に戻ってた小林(英樹)がブッキングしてくれて、東北のTSUTAYAで30本以上のインストアを組んでたんですけど震災で全部飛んじゃったし、肝心のデビュー・アルバムが地元で並ばないという。こんなことってあるのって。すごいショックでしたね。それで彼女たちのために
〈Life goes on〉 という曲を書きました。思い入れがすごくある子たちだったので、その5年後にあのように(分裂することに)なってしまったのは悔しかったですけど……。本当にドラマティックなデビューでしたよね」
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――現実に則した物語が歌でも形成されていったのも印象的でした。「14回目のありがとう」 は、〈TOKYO IDOL FESTIVAL〉でたくさんの人に“発見”されたことを受けて“出会ってくれてありがとう”と書かれたのでしょうか。 「そうです。たしかその直後に書いて、安部さんとのアレンジも7割方詰めていたんですけど、リリースはずいぶん後になりました。“次のアルバムに入れます”っていう連絡がきて、安部さんに連絡したら“あのときのデータが見当たらない”と。どういうわけかこの曲のデータだけ僕のほうにも残ってなくて、結局イチから作り直したという思い出があります(笑)」
――坂本さんのお話を聞いていると、胸がズキッとするような歌が多いのがわかる気がします。人生観が反映されているというか。
「ドロシー、パクスプエラに限らず、自分の曲もそうですね。人生楽しいことだけじゃないですし、悲しいことがあるから楽しいことが光ってくると思うので。明と暗だったら、暗をちょっと入れたい。まったくのおめでたい曲っていうのがどうしてもダメなんですよね。リスナーとしては全然いいんですけど、自分が作るときに、ものすごく嘘くさく感じちゃう。どこかでキュンと、シュンとさせることでエンディングに向けてのカタルシスというか、幸福感が増してくるんじゃないかなと。うん、本当にそうかもしれないです。順風満帆な音楽人生でもなかったですし、プラスマイナスで、プラスだったらいいかなくらいの」
――それをああいう爽やかな人たちが歌うとグッとくるというか。
「お話をしていて気づきましたけど、基本は自分がグッときたくて書いているんだと思います。こういう子にこんなこと言われたら堪らないな、みたいな。それにファンのみなさんが共感してくれて、届くんだと思います。まずは自分がグッとくるかどうかが大事なことかなと思います」
懐かしいワードが、彼女たちが歌うことで最新のポップな歌詞になる
――パクスプエラの「青・蒼・碧」 は、青空がただ綺麗だなというのではなくて、いろいろあった上で見えてきた青空の美しさに気づくという曲じゃないですか。 「そこまで感じていただけると作り手冥利に尽きます。たとえば、切ないっていう感情があったとして、あやふやな感情ですよね。解釈のしようがたくさんあるし。そのふわふわした感覚を、切ないと言わずにどうやったら表現できるだろうっていうのは考えていますね。そうすると必然的に悲しい出来事は入ってきますよね」
「そうですね。同じように、複雑な感情を複雑な言葉を使わずに表現する、ということはいつも考えています。〈言わなくてよかった〉はアルバム『Life goes on』が出た直後、2013年の春ぐらいに書いたんですが、秋っぽい曲だということで秋に出そうと。ところが、その頃からドロシーがギター・ポップ的なサウンドにシフトしていったので、〈言わなくてよかった〉から離れてしまったと感じて。“これはリリースのタイミングを失ったのでは?”と思いました。“お蔵入りかもなー”って(笑)。結局、次の
『STARTING OVER』 に収録されましたけど、書いてから1年ぐらい経っていましたね。アルバムの中であの曲の質感だけが違っているのはそういうわけです」
――そうだったんですね。
「ドロシーには作家が何人かいて、事前にディレクターさんがそれらの楽曲を聴かせてくれるんですね。それで“今回のアルバムに足りないのはこんな感じの曲だな、こんな感じの詞の世界だな”とか考えて、そこから書き始める。いつの間にか“全体のバランスを取る係”的な立ち位置で曲を書くようになっていました。〈それは小さな空だった〉は、〈デモサヨナラ〉に出てくる2人の後日談……みたいな曲が書きたいなと思って書いたんですよ。もう高校を卒業したメンバーもいましたから、そろそろいいかなと。この曲はこれまで僕が書いたすべての曲の中でも、トップ3に入る会心作だと思っています。リリース時もいろんなところで言ったんですけど、いまだにそう思ってますね。バラードなんですけど、我ながらキレキレの曲なんですよ。歌詞もメロディもコード進行も。特に歌詞。最初の4行で2人の関係と心情をすべて表わしてるんですね。この4行、ほんとにすごいんですよ(笑)!日本のポップス史上に残る4行だと思ってるんですけどね。年齢的にもそのときのドロシーのメンバーにピッタリだと思っていたし、初めて
毛利泰士 くんと組んだのも成功だったし、これはすごいのできたぞと。結果的に、この曲が僕がドロシーに書いた最後の曲になってしまいました」
――歌詞に関しては“だわ”などの女性言葉が特徴的だなと思います。
「ドロシーのときに気づいたんですけど、男の人の言葉より女の人の言葉のほうが語尾の種類がいっぱいあるんですよ。“なのよ”とか“なのね”とか。1個1個のニュアンスが違うから、これはズルいぞと。女のほうがいいじゃないかと(笑)。やっぱりキュンキュンさせたいじゃないですか。そう思って書いているので、女の人の言葉を使うことが多いのかもしれません」
「完璧!嬉しいです。ある年の〈光のページェント〉のテーマ曲用にドロシーで1曲書いて欲しい、という依頼があって書いた曲ですね。インディーズ時代のドロシーの2ndシングルになりました。まあ、我ながら良くできた曲だと思います(笑)。ドロシーのお話を引き受けるときに、自分が持っているポップセンスがどこまで通用するのか試してみようって思ったんですね。この曲ではそれが炸裂していると思います。このあたりで“うわープロデュースって面白いなあ、やり甲斐あるなあ”と思い始めた記憶があります。さあ行くぞってみんなで張り切ってたんですけど、リリース直前に初期メンバーでメイン・ヴォーカルの1人だと思っていた(鈴木)美知代がやめちゃって」
――そうでした。ジャケットには写ってるんですけどね。
「直接話を聞かないと、っていうことで山形の米沢まで会いに行って、お母さんと美知代とファミレスで3人で話しました。それで、もう戻る気はないんだなとわかったので、じゃあどうする、となったときに、(?橋)麻里が“私が1人で頑張ります”って言ったんです。正直もう1人歌える子を入れたほうが曲は書きやすいと思いましたけど。結果的に麻里が1人で歌うことが、ほかのグループからドロシーを際立たせることになっていくわけなので、すごい決断だったなと。それから(早坂)香美が新メンバーとして入って、その後の5人体制になって。それらが1ヵ月ぐらいのあいだに起こったんですね。曲の思い出よりはそっちのほうが強烈に残ってますね。ギリギリバタバタのなかでの制作だったので、個人的には心残りもたくさんありまして、メジャー・デビューのときに安部さんと一緒にアレンジし直しました(※2) 」
※2 『デモサヨナラ』に「Winter blossom〜冬の桜〜」とタイトルをかえて収録。
――パクスプエラとドロシーでは、メイン・ヴォーカルの捉え方が違いますよね。
「パクスプエラは5人って考えています。5人とも歌のセンスがあるんですよね。大きい子がそれを表現するテクニックを持っている、というだけで5人とも歌える。声もそれぞれ個性的で面白いので、誰がメインヴォーカルっていうのは僕のなかではないんです。ステージでは(阿部)菜々実の背が高いし目立つのでセンターにいることが多いですけど、レコーディングだと(中村)妃那の声が音楽を作る上で面白いです。
〈Speed of love〉 という曲では年上チームと年下チームで言い争う図式を作ってミュージカルっぽくしているんですけど、こういうときの妃那の声っていうのは、いましか出せない旬なものだと思います。ああいうのがいまのパクスプエラの面白さですよね」
――「リングを駆けろ!」は、戦い抜いていくぞという意志の表明であると同時にユーモラスでもあって、そこも個性のひとつなのかなと思いました。
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「やはりデビュー・シングルのときはメンバーのことをよくわかってないですから、パクスプエラの5人と一緒に作る、というよりはデビューに際しての僕からの贈りもの、みたいな感覚で作ったんですね。それから何度かライヴを見たりメンバーのことがわかってきたりして、“弾けた曲が必要だな”と。5人の声質もわかってきましたし、これからパクスプエラだからこそ生まれた曲がどんどん増えていくんだと思います。ドロシーのときも考えていたことですが、“いい楽曲を作りたい”って考えているウラで、音楽に詳しい人とか僕ぐらいの年の人をニヤッとさせたいっていうのがあるんですね。パロディだったりオマージュだったり。懐かしいワードが、彼女たちが歌うことで最新のポップな歌詞になる。これぞオジサンの密かな楽しみです(笑)。とにかくいわゆる“アイドルファン”以外の人をどう巻き込んでいくかを常に考えているので、きっかけはあちこちに散りばめたいと思っています」
――「STAR」 は、Dorothy Little Happy「ジャンプ!」 などと同じく、冒頭のリフからは想像のつかない展開をして、いつしかまたリフが戻ってくるというのがスリリングです。これも坂本節のひとつなんじゃないかなと思っているのですが、いかがでしょうか。 「言われてみるとそうですね。アイドルのプロデュースで意識するのはライヴで、ライヴで印象的に見える、聴こえるためにはどうしたらいいのか、というのをほかのプロジェクトの楽曲を作るときより重要視しているんです。楽曲の中にいろんなシーンを作ることでライヴ上の演出も変わってくるだろうし、本人たちの表情も変わるだろうし。それがそのまま彼女たちの魅力になっていくわけなので。ステージ上での照明とかオーディエンスの反応とかを想像しながら作ってますね。まあ、あとは楽曲派のみなさんをニヤッとさせたり“そうきたか!”って裏切りたかったり……というのもありますね(笑)」
――先ほども少し話に出たデビュー曲〈1!2!3!〉 は本当にびっくりしました。人生の選択、岐路の歌じゃないですか。当然ドロシーに重ねる人もいるだろうし、人によっては学校の進路のことかもしれないし、浮気の話かもしれなくて。 「生きるっていうのは選択の連続ですからね」
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――それをパクスプエラみたいなピュアな人たちが歌っているというのが強烈で。
「そうですね。デビュー曲ってすごい大事で。それをずっと歌い続けられるかっていうのは重要じゃないですか。ドロシーは〈ジャンプ!〉をずっと歌い続けてくれて、ファンの人にも愛されて。いろんなことがあったけれど、〈ジャンプ!〉をずっと大事に歌ってくれているのを見たときは、あの曲を最初に彼女たちに贈ったのは間違いじゃなかったなって思いました。だから〈1!2!3!!〉も、レーベルには申し訳ないですけど、売れる売れないじゃなくて、彼女たちが帰って来られる場所を作ってあげないと、と思って作りました。僕は〈天使達の歌〉を何千回も歌っていて、歌う度にあの最初のストリートで歌い始めた頃のことを思い起こすんですけど、それと同じように、彼女たちが何年か後にデビュー曲を歌ってくれたときに最初の感じを思い出して気持ちが戻ってくれたらいいなと思います。親の視点っていうのは絶対にあって。曲を書く上では邪魔になっちゃうので忘れるようにしてますけど。親から子への歌なんてキュンとこないじゃないですか(笑)」
――音楽面だけではなくサポートしていくと。
「トータルで考えたときにはそういう気持ちでいますので、あの子たちが事故のないよう業界を渡っていけるようにしたいなと思っています。サウンド・プロデュースという立場ではあるんですけど、まだかけだしで大きいお金もかけられないし、専属のマネージャーもいないというところで言うと、いまは歌で導くしかないんですね。レコーディングで接するときとか、歌詞で間接的に伝えたりすることで、彼女たちをいいほうに向かっていくようにしてあげたいです」