大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第19回:河内家菊水丸[前編]
掲載日:2015年08月07日
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大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第19回:河内家菊水丸 [前編]
 日本各地に数多く存在する音頭のなかでも常に進化してきた、大阪は河内地方に伝わる“現在進行形の音頭”河内音頭。そして、そのような進化する河内音頭の姿を常に体現してきたのが河内家菊水丸だ。
 1963年(昭和38年)、大阪府八尾市に生まれた彼は、幼いころから河内音頭の世界に足を踏み入れ、高校3年生だった80年から吉本興業に所属。80〜90年代にはワールドミュージックやレゲエの領域にも積極的にアプローチし、91年のCMソング「カーキン音頭」によって全国的にも知られるようになった。2009年には彼の代名詞ともなっていた新聞詠み(時事ネタを歌う、一種の瓦版読み的スタイル)を封印し、伝統河内音頭継承者の道へ。2012年には甲状腺乳頭癌という大病に冒されていたことが発覚するものの、その後手術によって完治。先ごろデビュー35周年を記念するニュー・シングル「本日は晴天なり」を発表したばかりだ。
 現代河内音頭の代名詞にしてイノヴェイター、河内家菊水丸の半生を追うロング・インタヴュー。まずは河内音頭と出会った幼少時代から新聞詠みで時代の寵児となるまでの前半戦をお届けしよう。
河内人ならではの一度決めたことを貫く一本気なところは受け継ごう
――菊水丸さんが子供のころの八尾はどういう場所だったんですか?
 「八尾は河内平野のヘソと言われてる場所なんですけど、今 東光さんが『悪名』(註1)で描いた世界の名残りはまだありましたね、ええ。軍鶏喧嘩はもう行われてなかったけど、人情に厚くて、なおかつ河内音頭が盛んな場所であるという小説そのまんまの世界がありました。今も山のほうにいけば当時の面影はありますけど、駅周辺はずいぶん変わりましたね」
註1: 悪名 / 横浜生まれの作家・僧侶、今 東光の小説。河内の暴れ者“八尾の朝吉”と、朝吉の弟分である“モートルの貞”を主人公とする仁侠物語であり、61年には勝 新太郎田宮二郎の出演で映画化。大ヒットを記録したことから、以降シリーズ化された。
――もともと八尾は綿や菜種油を生産する農村ですよね。それが戦後になって発展していったと。
 「そうですね。僕が生まれたころに住宅地が増えてきたみたいで、ちょうど様変わりしつつあった時期だったんでしょうね。僕は父(註2)のもとに入門して河内音頭を歌っていたんですけど、中3から高1までは他の師匠に習ってたんですね」
註2: 父 / 河内音頭の音頭取りである河内家菊水。72年にはクラウンからアルバム『浪曲河内音頭 悲運名横綱玉の海/藪井玄亥』をリリースしている。
――久乃家勝美さん(註3)ですね。
 「そうです。その久乃家勝美師匠のお父さんが“モートルの貞”のモデルだったんです。映画だと田宮次郎さんが演じていた役で、その実在の人物」
註3: 久乃家勝美 / 2002年に他界した河内音頭の音頭取り。73年、八尾・常光寺をホームとして久乃家会創立。
――菊水丸さんの自叙伝『音頭ボーイ』ではその方について「言葉は荒いが、根は朝吉のようにやさしい。それが河内の男だ」と書いていらっしゃいますよね。そういう方が当時の八尾にはたくさんいた、と。
 「そうですね。喋ってるところを聞いても喧嘩してるみたいな感じなんですよ。でも、それが彼らにとっての丁寧語だったりする(笑)。今の八尾にはもうそういう人はいないですね。僕はその世代に触れることができた最後の世代。今 東光さんもまだご存命でしたし、実在の朝吉親分もまだいた。でも、平成のころには姿を消してしまいましたね。河内音頭という芸能を生業とするかぎり、少年時代に昔の河内人と触れられたというのはありがたいことですわね」
――河内音頭の世界観というのは、戦前の河内男の美学や世界観というものを映し出したものでもあるわけですよね。
 「そう思いますね、ええ。ただ、僕自身はそれがイヤな部分でもあったんですよ」
――といいますと?
 「僕も河内男の心意気は持っていたいと思っていますけど、飲む・打つ・買うがそこにセットになるわけですよね。まるで定食のように(笑)。そこに対しては子供のころから抵抗があった。僕の師匠である父も飲む・打つ・買う全部やる人で、小学校1年のときに離婚しましたし。河内男は水を飲むがごとく酒を飲みますからね。八尾の喫茶店の水、あれも冷酒やないかと思うてるんですよ(笑)。ウチの母が泣いてるのも見てましたし……ただ、父としてはどうやっても尊敬できないですけど、河内音頭の師匠としては尊敬してましたし、師匠のようになりたいと思ってました。ただ、“飲む・打つ・買うだけはやらんとおこう”というのはいまだに守ってます。その意味では、僕は本当の河内男ではないかもしれない。ただ、河内人ならではの一度決めたことを貫く一本気なところは受け継ごうと思ってます」
――河内音頭に本格的に惹かれるようになったのは、そんなお父さまのレコードがきっかけだったそうですね。
 「それ以前から河内音頭は耳にしてましたけどね。大阪市内の学校の体育祭ではだいたいフォークダンスを踊るんですけど、八尾の学校では河内音頭を踊るんですよ。僕の子供のころは『悪名』の影響もあって、河内音頭が格好いいとされていたんでしょうね。
 おやっさんがレコードを出したのは両親が離婚した後のことだったんですけど、八尾駅前の山口レコード店で母親がそれを買うてきたわけですよ。“あなたのお父さんのレコードです”と。あの一言は忘れられませんな。“あなたのお父さんのレコードですけど、私にとって赤の他人です”ということだったんだと思います。当時は年に一度しか父親と会えなかったので、レコードで久々に父の顔を観たんですね。バクチばかりやってたイヤな親父というイメージもあったけど、そこは子供ですからね、久々に父の顔を見れて嬉しかった」
――お父さまのレコードを聴いてみて、いかがでした?
 「懐かしかったですよ。久々に父親の声を聴けて嬉しいんだけど、母親の手前嬉しい顔はできないから、無表情だったと思う。母親はピアノ教師をやって僕を育ててくれたんですけど、あの時代は高度経済成長期でしたから、習い事というのは右肩上がり。母親も家で教えるだけじゃなく、外で教えることもありました。そういうときにナイショで父のレコードを聴いてましたね。ヴォリュームを目一杯に上げてね。でも、子供がやってることですから、まっさらだったレコードがいつの間にか指紋でベタベタになってたことから、母親にバレるんですね。そんなに河内音頭が好きなら習わしたろうか、と」
――どうしてそこまで惹かれたんでしょうね。
 「うーん、なんでしょうね。最初は河内音頭を意識していたというより、父親の声を聴きたかったんでしょうね。会えない父に会ってるような感覚になれたというか。それで母親は勘違いしたんでしょうな。息子は河内音頭が好きなのか、やるんだったら父のもとできっちり修行しなさい、と。ただ、“お父さんと子供ではなく、師匠と弟子という関係を守りなさい、公私のケジメはきっちりつけなさい”とは言われました。だから、河内音頭を聴いて“ええ節やなあ”とか“この物語はええなあ”という気持ちが生まれたのはもっと後のことですな」
――そういう気持ちが芽生えるようになったのはいつぐらい?
 「父親に会いたいがために一週間に一回稽古に行くようになるんですけど、河内音頭ももともと嫌いじゃなかったから、稽古通いもやめずに続けることになるんですね。決定的だったのは小学校5年生のとき、河内音頭の櫓の上で初めて歌ったこと。あれから病み付きになったんでしょうね。自分の歌った音頭でものすごい人数の人たちが踊ってくれる、あの気持ちのよさ。踊りの輪のなかには同級生もいるし、普段は敵対してる学校の先生もいる(笑)。自分の音頭でみんなが楽しんでくれてる、あの体験以降ですね。僕は小学校5年生のあの日から日記をつけていて、今まで1日も欠かしたことがないんですよ。それぐらいあの夏の感動を何かの形で残しておきたかったんでしょうね」
――河内音頭に関心を持っていた同級生も多かったんですね。
 「みんな好きですわね。八尾の盆踊りの花形でもある常光寺なんかはみんな遊びに来てましたから。当時は朝まで盆踊りをやっていて、子供でも夜11時ぐらいまで親公認で遊べたんですね。その櫓で歌うとなると、同級生から“格好ええやんけ!”と尊敬されるんです(笑)。夜店のチケットも差し入れされるので、それを同級生に配るんです。すると、みんなにええ顔ができる(笑)」
――当時の盆踊りは常光寺に限らず、朝までやるのが普通だったんですか。
 「そうですね。27時入りで28時出番、ということも普通でした。朝日が上ってきたら終了となるんです。今は朝までの盆踊りはほとんどないですね。僕が高校生のころまでは普通にやってましたけど、平成になってから何もかも変わってしまった。公園とかの警察の使用許可が23時以降、出なくなったんです。撤去のこととかを考えると、21時ぐらいには盆踊りを終わらせないといけなくなる。どんどん(終了の時間が)早くなってますわな」
――朝方の盆踊りの雰囲気、すごそうですね。
 「もうね、歌ってるほうも踊ってるほうもトランス状態ですよね。踊り手にしたって、夕方、仕事が終わってそのままひと踊りしてから家に帰り、夕飯を食べてから桶を持って銭湯にいく間にひと踊りしてまんねん。その後、風呂上がりにひと踊りしてまんねん、一眠りしてから朝方にまだ踊りにいく(笑)。みんなそんなんでしたからね。当時は警察も制服を脱いで踊ってましたから(笑)。ただ、ある程度の秩序は守られてましたよ。殴り合いの喧嘩が起きるような雰囲気はもうそんなになかった。敵対する組織が傾れ込んできて櫓が倒れた、そんな話は僕らの時代にはなかったですね」
――やはり菊水丸さんが十代のころというのは河内が変わりつつある時期だったんですね。
 「そうでしょうね。僕の知ってるなかでいえば、小沢昭一さん(註4)が取材で常光寺に来てるんですね。昭和40年代後半かな。その時点でそんなにムチャクチャなことはなかったというようなことが書かれてる。たぶん昭和30年代まででしょうな。高度経済成長期、特に万博(日本万国博覧会 / 70年3月〜9月)あたりで変わったんじゃないでしょうか」
註4: 小沢昭一 / 俳優・タレント。60年代末から日本の古典芸能の研究を本格的に開始、71年には日本全国の放浪芸を収めた7枚組のレコード『日本の放浪芸』を制作し、以降、多くの続編を世に放った。小沢が常光寺の盆踊りを訪れたのは72年の8月23日。そのレポートは雑誌「太陽」の連載「諸國藝能旅鞄」で取り上げられた。
――ちなみに、当時の菊水丸さんが師匠以外に憧れていた音頭取りは誰だったんですか。
 「まあ、諸先輩いますが、河内音頭を確立した鉄砲光三郎さん(註5)、浪曲の(初代)京山幸枝若師匠(註6)、次の世代である生駒 一師匠(註7)……生駒 一師匠はプロの世界に導いてくれた人ですし、バックの演奏でずっとついて回ってましたからね。生駒 一師匠は僕のモデルケースだったんです。河内音頭の音頭取りは夏だけ働く季節労働者なわけですけど、それでちゃんとメシを食えて、そこそこいい暮らしができるということを生駒 一師匠についてるとき目の当たりにしたんですね」
註5: 鉄砲光三郎 / ジャズなどの要素を取り入れた独自の“鉄砲節”を編み出し、河内音頭の歴史に大きな影響を与えた音頭取り。2002年没。
註6: 京山幸枝若 / 浪曲師の父のもと英才教育を受け、若くして浪曲の世界へ。河内音頭や江州音頭にも積極的に取り組み、自身の芸風を確立。河内音頭の音頭取りたちにも大きな影響を与えた。現在は二代目が活動中。91年没。
註7: 生駒 一 / 50年生まれの音頭取り。12歳で河内音頭界の名門、鉄砲博三郎会に入門し、70年に生駒会を設立。現在も精力的な活動を続けている。
――芸の面のみならず、活動の仕方そのもののモデルケースでもあったわけですね。
 「まさにそうです。人との接し方とか基本的なことを教えてもらいました」
――そして、高校3年生だった80年になんば花月(註8)で初舞台を踏まれます。
 「僕は高校2年生から京山幸枝若師匠のもとでギターを弾かせてもらってたんですけど、幸枝若師匠というのは関西浪曲界きっての大看板ですからね、キャバレーの楽屋にしても全然違うし、弁当も全然違うんです(笑)。それがよしもとで初舞台を踏んで、ひとりで営業にいくようになると、待遇が全然違うんですよ。幸枝若師匠のバックでギター弾いてるときのほうがギャラも待遇もよかった(笑)」
註8: なんば花月 / 吉本興業の演芸専用劇場。88年に閉館。
――ご自身の看板で回るようになってから、ある意味ゼロに戻ってしまったわけですか。
 「いやー、マイナスぐらいですよ(笑)。本当に厳しかった。初舞台は80年の8月11日が初日でした」
物事を変えるには元を知っとかなあかん
――その後ロック河内音頭やレゲエ河内音頭にアプローチしていきますよね。そういった新しい路線に取り組むきっかけはなんだったのでしょうか。
 「吉本興業に入ったことが大きかったですね。僕が入ったのはちょうど漫才ブームが起きる直前の時期。吉本の試験を受けた前年の79年12月は漫才ブームの気配すらなかった。せやから“河内音頭でも一枚入れとこか”ということで僕も入れたんでしょうね。でも、80年の夏は状況も激変してた。トリは吉本新喜劇で、色物のトリはやすしきよし師匠、(笑福亭)仁鶴師匠、(桂)文珍さん、(明石家)さんま兄さんなど、お盆興行だから豪華なんですよ。(今)いくよ・くるよさん、ザ・ぼんちも出てたけど、まだ看板は小さかった。ただ、漫才ブームになりかけてたから、客層がお年寄りから若い層に変わりかけてたんですね。そんなところで河内音頭で出ていったんです。しかも当時は習った通りの古典の河内音頭しか知らない状態。しかも吉本の場合、他の仕事の都合でやすし・きよし師匠が一番最初に出ることもあるんです。だから、やすし・きよし師匠やさんま兄さんの後、すし詰めの満員状態のなかへ僕が出ていくこともあった」
――反応はどうでした?
 「いやー、おもしろいように外に出まんねん。みんなトイレにいってしまう。で、ちょうど僕が終わるころにみなさん帰ってこられる(笑)。劇場の客層は日に日に若くてなっていくし、“これはなんとかせんとあかん”という危機感を覚えましてね。劇場の支配人が苦い顔をしてて、案の定出番がなくなってしまった。高校を卒業したら河内音頭で食っていこうと思ってたんですけど、これは困ったなと」
――そこから新しいスタイルを模索していくことになるわけですね。
 「そうですね。一番のヒントになったのは(島田)紳助兄さんですね。紳助竜介は当時、スーツを脱いでツナギに変えた時期だったんですね。それがひとつのヒントになった。紳介兄さんからは“ネタを変えなあかんことはあかんけど、スタイル自体も変えていかなあかんで”と言われてたんですね。落語をやってはったさんま兄さんもスーツに変えつつあった。だから、ちょっと上の先輩方がスタイルを変えていったのにずいぶん触発されましたね」
――それで河内音頭も変えていかないといけないと。
 「ただ、物事を変えるには元を知っとかなあかんということで、八尾の図書館で河内音頭の文献を片っ端から読んだんです。そうしたら、明治のころの河内音頭というのは瓦版読みだったというようなことが書いてあったんですね」
――瓦版読み?
 「そうです。その時々に起こったことを瞬時にネタにする。“昨日の心中事件をネタにします”というのがもともとの河内音頭で、当時のネタは使い捨てだったわけですな。それが時を経るごとに、ひとつのネタをより完成度の高いものにしていこうということになっていった――そういうことが書かれた文献を読んで、“だったら十代の目線でネタを作ってもええねや”と」
――なるほど。
 「あとね、出番がない18歳のころ、京都花月でさんま兄さんがバンドを従えてコンサートをやることになったんですね。観にいったら、バンドはごっついうまい。兄さんの歌はいまいちやったけど(笑)。紳助兄さんも紳助バンドをやってたし、こういうやり方もあるなあと思ったんですね。それで、二番煎じやけど、河内音頭の世界では誰もやってないからロック河内音頭や!となったんです。赤いツナギを紳助兄さんからプレゼントされて、それを着て舞台に出ました。高校の後輩をスカウトして、世相風刺を少し入れて、なんば花月の支配人に“ええのんできました!”と持っていったんですね。当時は完全に漫才ブームで、ベテランは出番がない。若手がどんどんトリを飾る時期になったんですね。そのなかでロック河内音頭で出ていったら、結構反応がいいんですよ。同世代が河内音頭をやってて、しかもロックだし、言ってることも分かる。ところが、吉本の亡き林 正之助さん(註9)が僕の音頭を観たんですね。看板に“河内音頭・河内家菊水丸”と書かれていて、会長のなかでは“昭和のこの時代に河内音頭をやってる若者がおるのか!”と思っていたところ、いきなりロックでガンガンやってるから、会長が耳を塞いだらしいんですよ。なんや、このやかましいのわ!って(笑)。ほんだら、次の日から僕の出番がなくなってしまった(笑)」
註9: 林 正之助 / 吉本興業の創業者、吉本吉兵衛の妻である吉本せいの弟。48年に社長に就任。一時期体調不良のため社長から退任するものの、91年に死去するまで社長を務めた。
――すごい話ですねえ(笑)。
 「そういうことにもめげずに、まだまだ音楽的に工夫してみたいと思ってたんですね。そんなころ、ある人が“京都にノーコメンツ(註10)という訳のわからんバンドがあんねん”ということを教えてくれたんです。スリランカやら中東の音楽をやってるゲテモンバンドやと(笑)。毎日放送の番組で彼らと一緒にやることになったんです。そのとき古典的な河内音頭とロック河内音頭をやったんだけど、意外とうまくいって。彼らとの交流を通じてレゲエの存在も知ったんですね」
註10: ノーコメンツ / 79年に京都で結成されたバンド。80年には日比谷野外音楽堂で行われたマッドネスの来日公演でオープニング・アクトを務め、同年末には1stアルバム『ノーコメンツ』をリリース。後に桜川唯丸ネーネーズらのプロデュースを務める佐原一哉や、現在も菊水丸の右腕として活動するギタリスト、石田雄一らが在籍した。
――ノーコメンツとの出会いも大きかったわけですね。
 「そうですね。当時ノーコメンツがやってたのはスカ。ただし、“スカ”といっても当時誰も知らないから、“寿歌”って書いてましたわ。ノーコメンツのメンバーを中心に、後に河内家菊水丸&河内エスノ・リズム・オールスターズができるんですね。そのバンドで〈レゲエ一代男〜ボブ・マーリー物語〉(註11)もやりました」
註11: レゲエ一代男〜ボブ・マーリー物語 / ボブ・マーリーの生涯を歌ったネタ。貴重音源を集めたコンピレーション・アルバム『河内家菊水丸 河内音頭秘蔵コレクション(5)』で当時21歳の菊水丸による熱演を聞くことができる。
――70年代も椿 秀春の「ソウル河内音頭」や「ディスコ河内音頭」がありましたけど、菊水丸さんが生み出そうとしていたのは、80年代の当時の感覚のもとに生み出された新しい河内音頭だったわけですよね。
 「〈ソウル河内音頭〉や〈ディスコ河内音頭〉はウチの親父の世代の人がやってたんですよね。だから、アレンジにしても“これ、どうかなあ?”という気持ちはあったし、あんなんはしたくないなあというのはありました。ノーコメンツとだったらおもしろいものができるんじゃないかと」
――そうした活動と平行し、先ほどおっしゃった“瓦版読み”の復活でもある“新聞詠み”という方法論を独自に発展させていきますね。
 「新聞詠みというのは、演者が新聞を持って櫓に登り、今日はこんなことがあった、昨日はこんなことがあったと歌うというスタイルですね。戦後そうしたスタイルは滅びていたので、昭和59年に僕が復活させたんです。で、復活第一作はどんなもんがええんかな?とネタ探しをしてる最中にグリコ・森永事件が起きた。これや!と思ってネタを書いてみたんですけど、事件のあらましを追うだけでは……と思っていたら、ある日の夕刊にかい人二十一面相の脅迫文が掲載されていたんですね。“もうグリコを襲撃しませんよ”というある種の終結宣言文だったわけですけど、その終結文が七五調で書かれてたんです。それがまた河内音頭の作詞家以上の名文。そのまんま河内音頭の節で歌えるんですね。河内音頭の楽屋言葉で“バラシ”と呼ばれる後半の盛り上がり部分もしっかりあるし、これを河内音頭でやってやろう!となったんです」
――それが「終結宣言音頭」というネタになったわけですね。
 「そうですね。当時、カセットブックというものがあったんですけど、そのカセットブック用に〈ボブ・マーリー物語〉をレコーディングしてたんですね。ワントラック空いてたので、グリコ・森永事件の終結宣言文をそのまんまレコーディングしようということになった。そういえばね、発売前、JASRACから連絡があったんですよ。“作詞のかい人二十一面相先生の振込先を教えてください”と(笑)。“大阪府警に聞いてくれ”と答えました(笑)。その〈終結宣言音頭〉という曲の作詞の著作権料は、いまだにかい人二十一面相名義でプールされてるはずです」
――ところで、そうした新聞詠みの活動に関して音頭界からはどのような反応があったんですか。
 「それはもう、ロック河内音頭からレゲエ河内音頭、新聞詠みに至るまで、僕がやることなすことはすべて邪道である、そういう反応ですよね。それと戦い続けているという感覚ですよ」
――ただ、菊水丸さんとしてはその時代時代で河内音頭のあるべき姿を追求しているということでもあるわけですよね。
 「そうですね。ただ、バンドでの活動と新聞詠みの活動、そこに加えてもうひとつ、河内音頭の古典を残す作業も早い段階からやっとかなあかんかった。どっちかというと、その方向が疎かになってましたから、余計に諸先輩方からは叩かれました。それで40歳が近づくころから古典を残す作業にも本腰を入れるようになるんですね」
撮影 / 久保田千史
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