大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第20回:河内家菊水丸[後編]
掲載日:2015年08月14日
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大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第20回:河内家菊水丸 [後編]
 現代河内音頭の代名詞として全国的な認知度を誇ってきた河内家菊水丸は、2009年に伝統河内音頭継承者の道へ進む。“進化する河内音頭”を象徴する存在である菊水丸の突然の路線変更には多くの音頭ファンが驚かされたが、ルーツを巡る研究と修行を通じ、その世界観はさらに深みを増していった。そんな最中の2012年、菊水丸の身体に突如異変が現れる。音頭取りにとっての“命”である声を失う危機、そして奇跡の復活――。
 取材時間は2時間を越えたが、菊水丸は絶好調。後半ともなると、あまりにも見事な話術に引き込まれてしまい、筆者はほぼ相鎚を打つ役割に撤している。先ごろリリースされたニュー・シングル「本日は晴天なり」の話から河内音頭の可能性も含め、いくらかの余談を交えたロング・インタヴュー後半戦。その小気味いい語り口と共にお楽しみいただきたい。
好物チョコレート、好きな飲みもの炭酸飲料
――2009年に新聞詠みを封印し、伝統河内音頭継承者の道へ進まれますよね。そのきっかけは何だったのでしょうか。
 「新聞詠みの限界を感じるようになったんです。新聞詠みというのはその時折のニュースを切るわけですけど、昔は盆踊りの会場やホールの場で完結したわけですわ。それがネットの普及によって変わってきた。新聞詠みというのは世相を切るわけですから、ある意味極端なことを言うてるわけで、こき下ろすからこそ面白い。ただ、ネタそのものを聞いてもらえれば分かるものを、一部だけが引用されてネット上で発信されると、それが一人歩きして僕の本意とは別のものとして伝わっていくんですね。要するに、新聞詠みというスタイルがこの時代に即さんなあと思うようになったんですね。それで、これからは河内音頭を残していくほうに全力を注ごうということになった。ただ、新聞詠みで培ったノウハウもあるので、それを古典のなかに活かしていこうとは思っています。たとえば、〈水戸黄門〉をやるとき、自分の意見を水戸黄門の言葉として歌うなんてことはやってますね。これなら誰もクレームつけへんやろ、と(笑)」
――伝統河内音頭の道に進むにあたって、流し節(註1)の修行もされたそうですね。
 「そうですね。河内音頭のちゃんとしたルーツを自分で手繰ってみようと思ったんですよね。今やってる現代の河内音頭の前に、正調とされる古い河内音頭が何通りかあって、大きく分けて11通りあるとされているんですね。代表的なものは八尾・常光寺の流し節。あと、ヤンレー節(註2)や交野節(註3)、ジャイナ節(註4)と言われているものがあって、そういうものを一度習ってみようと」
註1: 流し節 / 南北朝時代、常光寺が再建される際に歌われた木遣り唄(木材や石材を運ぶ際、鳶たちが歌った労働歌)がルーツとされる古い盆踊り歌。“流し節正調河内音頭”とも呼ばれる。
註2: ヤンレー節 / 八尾市植松町に伝わる音頭の一種。長音階(メジャー)である現代河内音頭に対し、ヤンレー節は短音階のマイナー。そのため独特の哀愁に満ちた雰囲気があるとされる。
註3: 交野節 / かたのぶし。 江戸中期から後期にかけ、河内北部(現大阪府交野市周辺)で生まれたとされる盆踊り歌。明治に入り、茨田郡野口村(現在の門真市野里町)出身の中脇久七(通称・歌亀)らが改良を加え、それが河内音頭の原型となったと言われる。
註4: ジャイナ節 / 八尾市南部から柏原市にかけて伝わる盆踊り歌。
――習ってみて、いかがでした?
 「評論家の方々は河内音頭の研究本で“これまでに存在した11の河内音頭が混ざり合い、今日のスタイルとなった”というようなことを書いているんですね。流し節を習ってみての感想でいえば、現代の河内音頭と直接繋がるものではないということです。現代の河内音頭と流し節の節が重なるところはなかった」
――現代河内音頭と流し節は別物であるということですか。
 「そうですね、別物です。もちろん歴史を感じる節ですよ、流し節は。河内音頭の源流うんぬんは別にして、これはこれで一本存在する音頭です。ヤンレー節も習いましたけど、やっぱり重なる節はなかった。ただ、交野節はね、僕らとやってるところと重なるところがあります。かつての河内にはさまざまな音頭が存在していたわけですけど、僕の結論としては“現代の河内音頭の源流は交野節だろう”ということ。実際に歌ってみて分かったことでもありますね」
――そうやってご自身の足元を掘り下げていくなかで、それまで知らなかった河内音頭の一面を“発見”していったわけですね。
 「そういうことですね。新聞詠みを捨てるというのは業界内でも大きなニュースになったみたいですけど、それから正調に向かい合ったことで、得られるものは大きかったとも思いますよ」
――残り時間も少なくなってきましたので、そろそろニュー・シングル「本日は晴天なり」(註5)についてもお話をお聞きしたいんですが……。

 「僕は8、9歳から歌い出して17で初舞台を踏み、今年それから35周年を迎えたわけですけど、途中ね、42歳の厄年が怖かったんですわ。30代半ばぐらいから“自分は42で死ぬんじゃないか?”と思うようになったんですね。だから今のうちにいろんなネタも残しておかなあかんと思うようになって」
註5: 本日は晴天なり / 2015年6月24日発売。作詞・マシコタツロウ, 作曲・Face 2 fAKE・河内家菊水丸, 編曲・Face 2 fAKE。
――それでいろんなネタをアルバムに吹き込んで。
 「そうですね。あとね、僕は京山幸枝若師匠がもっとも尊敬する節回しの人なんですけど、僕が28のとき亡くなったんですね。でも、未亡人がお墓の場所を教えてくれなくて、ずっと墓参りに行けなかったんですよ。それが三回忌のときにようやく教えてくれて、やっと師匠の墓に行けることになった。なにせ紫綬褒章も受賞してる大名人ですから、いいところにお墓を立ててるんだろうと思ったら、和歌山の“どこやねん?”という場所なんですよ。関空から2時間ぐらいかかる。ようやく辿り着いたら誰も歩いてないし、霊園もない。車で細い道をずっと上っていったら、森が生い茂った真っ暗の場所で、奧のほうで波がザパーン!と断崖絶壁にあたる音がしてるんです。そこにひっそりと師匠の墓があったんですね」
――誰も通えないような奥地に。
 「そう。つまり、奥さんはずっと怒ってはったんですよ。いつも朝帰ってきて、いろんなこともあったんでしょうね。“こんなところにでも放り込んでおいたれ!”ということだったんでしょうね」
――すごい話ですねえ……。
 「あんな名人がこんなところに……と思いながら手を合わせてたんですけど、そのとき、“自分の墓は自分が入りたいところに確保せなあかん”と思ったんですね。それで年に1回は河内音頭を聴ける常光寺に墓を立てようと。でも、先代の住職は“菊水丸さんに入ってもらいたいんですけど、墓地、いっぱいですねん”と言うんですよ。次の住職に変わった後、常光寺の横に立っていた文化住宅をツブすことになって、そこを墓地にしようということになった。ほんで新しい住職が電話くれたんですよ。“菊水丸さん、まだウチの墓地に入りたいか?”と言うから、“入りたいです!僕、もうすぐ42になんです、死にまんねん!”ってアホ丸出しで(笑)。墓石は近所の墓石屋さんでお願いしたんですよ。そしたら、僕の同級生の女の子が“河内家菊水丸の墓”と書かれた墓石をたまたま見たそうで、僕の家に電話してきたんです。“岸本くん(註6)、死んだん?!”って(笑)。いやいや、生きてるがな(笑)。その墓石には“17歳で吉本興業なんば花月初舞台。好物チョコレート、好きな飲みもの炭酸飲料”と刻んでもらったんです。僕、酒を呑めんから、死んでから酒を置かれてもかなわん(笑)」
註6: 岸本くん / 菊水丸の本名は岸本起由(きよし)。
引退して命尽きるほうを選ぼうと思った
――だはは、大変ですねえ。
 「ホント大変ですわ。まあそんな感じで42の厄年も無事に過ぎたわけですけど、2年半前、30周年を終えた後、文楽劇場で独演会をやったんですね。独演会ですから力が入りますわな。あと2節、3節で終わるというところでカッと高い声を出したら、生まれて初めての激痛がノドにビーンと走ったんです。それで舞台を降りたわけですけど、その直後から魚の骨がノドに刺さってるような違和感がずっとあった。僕、ウナギが好きでよく食べるので何か小骨でも刺さったのかと思ってたんですけど、2週間経っても違和感が取れない。それで知り合いの医者にエコー検査してもらったら、甲状腺で手が止まって、“あっ”って言いはったんですね。“右の甲状腺に2つ、左に3つ、癌があるようですね。リンパにも転移が始まってますわ。ステージ4のAです”って。“甲状腺の専門病院にすぐ行ってください”と言うので行ってみたら、今度は担当医がいとも簡単に“ここまで進行してると気管切開手術ですね”と言うんです。“喋ることはできますけど、歌はもう無理です”と」
――それはショックですね……。

 「これはまいったなあと。癌やと宣告されたときにそれほどショックはなかったですけど、“声を失う”と言われたときには流石に響きました。それが平成24年の10月ぐらいですわ。ただ、甲状腺癌というのは他の癌に比べて進行が遅いというんですね。手術は翌年の1月までにすればよろしい。“先生、仮に手術しないという方法を選んだ場合、どれぐらい生きられますか?”と聞いたんですね。“声がなくなるんであれば手術はしたくない”、僕はそう答えたんです。先生は“来年いっぱいはいけるかな。来年の夏はいけるでしょう”と。それで、来年の夏、思う存分河内音頭を歌って、それで引退して命尽きるほうを選ぼうと思ったんですね」
――気管切開手術をし、声を失ってまで生き延びる道は考えなかったわけですね。
 「そうですね。それを吉本の社長に報告したら、“おまえ、それは違うやろ。気管切開手術をせずに、しかも癌細胞をきれいに取り除いてくれる先生が絶対この世の中にいるはずや”と言うんです。周りの人も同じ意見で、いろいろ調べてくれたんですね。甲状腺癌というのはチョルノブイリの原発事故の被爆者に多いと言われているので、ロシアにはそういう先生がいるかもしれんという話が出てきたんですけど、そのなかでたったひとりだけ気管切開手術をせず、なおかつ死亡率0パーセントいうお医者さんがいるというんですね。それが日本、しかも大阪の大阪警察病院にいらっしゃる鳥 正幸先生。その方に手術してもらうためにみなさんロシアから来てるというんですよ。しかもその大阪警察病院、偶然にも僕が生まれた病院だったんです」
――へえ!
 「先生は“僕はこういうきわどい手術ばっかりしてるんですわ。責任を持って癌細胞を取って、必ず声を残しますから”と言ってくださったんです。そこまで言ってくれたんだから、たとえ声を失ってももうええわと思えましたね。それで5時間半の手術が終わって、先生がまず“声を出してみてください”と言うんです。そこで“あっ!”という声が手術室に鳴り響いて……先生によると、薄皮一枚のところで癌細胞を取り切れたそうなんです。本当にギリギリだったと」
――まさに奇跡の手術だったわけですね。
 「僕にとっては30周年が終わった後に癌が見つかって、“これは35周年はないな”と一端諦めた後に乗り切ることができて、今回無事に35周年を迎えることができたわけですよね。そういうこともあって、記念の楽曲を1曲作ろうと。しかも音頭の新しいスタンダード・ナンバーを作ろうということだったんですね」
――そのときに“本日は晴天なり”という言葉が浮かんできたと。
 「ただ、あの言葉は最初からあったわけじゃなかったんですよ。今回曲を作ってくれたFace 2 fAKE(註7)のOh!Beさんと打ち合わせをしていたら、“実は僕のおじいちゃんはNHKの最初のころのアナウンサーで、〈本日は晴天なり〉というあの声はウチのおじいちゃんの声なんです”と言うんですね。その瞬間に“ぜひそのタイトルでいきましょう!あの手術台で声が出た瞬間から僕も『本日は晴天なり』という気持ちでしたし、お孫さんが使うんであればおじいさまも怒らへんでしょ”と(笑)」
註7: Face 2 fAKE / 音楽プロデューサーのAchilles DamigosとOh!Beによって結成された音楽プロデューサー・ユニット。これまでにEXILESMAPKinKi KidsBoAなどの楽曲を制作している。
――そりゃそうです(笑)。
 「僕が作詞もやっちゃうと河内音頭の決まり事から逸脱できないんで、Oh!Beさんの紹介でマシコタツロウさん(註8)が詞を書いてくれはった。この曲をみんなで作り始めたころ、日本人ジャーナリストがシリアで殺害されたり、暗澹たる空気感が充満してるときでしたから、やっぱりこのタイトルがふさわしいだろうと」
註8: マシコタツロウ / 作詞家・作曲家。2002年、一青 窈の「もらい泣き」で作曲家デビュー。これまでに多くのジャニーズ楽曲の作詞・作曲を手がけてきたほか、自身も歌手として活動している。
――サウンドに関してはいかがですか。いわゆる河内音頭のスタイルではなく、歌謡音頭といいますか、新しい音頭の形で提示した音になっていますよね。しかも今回のシングルには四つ打ちのEDMヴァージョン(「本日は晴天なり〜It's fine day〜」)も収録されていて。
 「格好いいのは当然として、歌いやすくできてますよね。あと、もう1曲のほう(「本日は晴天なり〜It's fine day〜」)のコーラスのベースの進行がね、どこか懐かしく感じるものがあった。彼らにお願いしてそういう気持ちになるとは思わなかったんですよね。格好ようできてるんですけど、いなたいコード進行が入ってる。新しい音なのに、どこか懐かしいんです」
――確かにそういう感覚はありますね。エレクトロニックな音ですけど、音頭のスタンダードらしい風格があって。
 「1曲目のほうは盆踊りにも適してるでしょうね。東日本大震災以降、地域のコミュニティーのあり方が問題視されるようになって、ここ最近ではいたるところで盆踊りが復活してますよね。河内平野でもそう。老若男女が踊れるものとなると、やっぱり盆踊りになるんでしょうな。被災地にいっても同じことを言われましたしね」
――菊水丸さんは三陸海の盆(註9)にも出演されていらっしゃいましたけど、これまでとは違った形でご自身の音頭が求められている感覚を覚えることはありますか。
 「それはありますよね。河内でも前は若者が踊る時間、お年寄りが踊る時間がやや分かれかけてたんですね。それが震災以降、変わった。三陸海の盆も不思議なご縁でね……現代河内音頭の元祖である初音家太三郎さんという人が書き残したネタのうちのひとつに“九代目横綱”というものがあって、これが秀ノ山雷五郎という第九代目の横綱の物語なんですね。僕はこのネタを録音し直してCDにしてたんですけど、秀ノ山雷五郎は宮城県気仙沼市の出身だったんですよ。なんで気仙沼の横綱の物語が河内の音頭に伝承されているのかはいくら調べても分からなかったんですけど、2010年かな、気仙沼の観光課からぜひ生で“九代目横綱”をご披露いただきたいという話をいただいたんですね。ただ、夏場ということもあってスケジュールが合わなくて。そうこうするうちに東日本大震災が起きて……新聞を読んでいたら、津波のあと、ひとつ残ったのが秀ノ山雷五郎の碑であったと書かれていたんですね。地方の郷土芸能を集めた三陸海の盆が行われるということになって、僕も第一回目に呼んでいただき、“九代目横綱”を披露させていただきました。ホント不思議なご縁ですわ」
註9: 三陸海の盆 / 毎年8月11日、日本大震災により犠牲になった人々を偲ぶことを目的として、大槌町や釜石市、大船渡市など場所を変えながら行われている郷土芸能の競演行事。
――残り時間がなくなってしまいました。最後にひとつだけ聞かせてください。他の音頭が古典芸能として保存されていくなか、河内音頭だけが現在も進化を続けていますよね。どうしてだと思いますか?
 「うーん、どうなんでしょう。音頭の持つエネルギーなんでしょうけど……不思議なのわね、僕、吉本に入ってから35年ですけど、吉本って漫才の会社といってもいいぐらいだと思うですよ。でも、漫才の元祖は河内音頭取りなんですよね。玉子屋円辰という人が漫才の元祖である、と。この人はもともと河内音頭をやってた方であって、僕の大先輩ですわ。吉本100年の歴史は漫才に支えられてきたわけですけど、漫才の元祖は河内音頭である!と胸を張りたい(笑)。まあ、それぐらいいろんな芸能に影響を与えるぐらいエネルギーを持ってるんでしょうな、河内音頭は。少なくとも市から補助金もろて保存してる芸能じゃないですからね。そういう芸能を批判するわけじゃないですけど、河内音頭は現在進行形のエネルギーを持ってるんですね」
――(レコード会社スタッフ)そろそろ終わりに……。
 「そうですか。ちょうど時間となりました。この続きはCDでどうぞ(笑)」
撮影 / 久保田千史
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