大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC - 第21回:里アンナ
掲載日:2015年11月02日
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大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第21回:里アンナ
 九州から南へ遠く離れた海域に浮かぶ奄美群島。その中心をなす奄美大島は、琉球文化圏とも異なる独自の文化が育まれてきた島としても知られている。アニミズム的な土着信仰やそこから発生した多くの祭祀のほか、“島唄”と呼ばれる個性的な歌の文化が息づく地としてご存知の方も多いことだろう。
 そんな奄美大島に伝わる島唄の伝統を継承する唄者(奄美では歌い手のことをこう呼ぶ)のひとりが里アンナだ。ポップスやミュージカルの世界でも活躍する彼女だが、そのルーツは高校卒業するまでの時期を過ごした故郷・奄美大島の島唄。最新作『紡唄』はゲストを一切招くことなく、奄美の島唄の数々にひとり挑んだ意欲作である。近年はアルゼンチンのマリアナ・バラフと競演し、ワールドミュージック・リスナーにも広く認知されつつある彼女だけに、本作もまた、さまざまなアプローチによって島唄の魅力を伝えてくれる素晴らしい内容となった。彼女の話を通じ、南洋の“歌の王国”、奄美大島の魅力にぜひ触れていただきたい。
上京してからのほうが島唄に対する思いが深まった
――お生まれは奄美大島の笠利町ですよね。(註1)
 「そうですね。出身は笠利町の喜瀬というところなんですけど、その後、須野にある母の実家に移りました」
註1: 笠利町 / 奄美大島北東部に位置する町。奄美市の一部を構成する。喜瀬と須野はどちらも笠利町の集落の名前。
――喜瀬ではどういう環境で育ったんですか?
 「奄美はすごく教会が多いんですけど、父も教会の管理の仕事をしていたんですね。それで7歳までは喜瀬の教会の2階に住んでたんですよ。日曜日にはミサがあるし、私もカトリックの保育園にも通っていたので賛美歌はいつも耳にしていました」
――島唄との出会いは?
 「両親は島唄にまったく縁がなかったんですけど、母のほうの祖父が島唄をやっていて。唄よりも三線が得意で、島唄を生徒さんに教えたり、夜通し唄遊び(註2)をしてたんですね。それで私も3歳のころから祖父(註3)に島唄を教わっていたんです。初めて島唄を歌ったのは、教会のクリスマス会の余興。父方の祖父が“子供が島唄を歌ったらおもしろいだろう”という理由で私に島歌を歌わせたことがあったんですね。それで母方の祖父に島唄を教えてもらったのが始まりでした。私自身も歌うことが大好きだったし、自然に島唄に入っていったんです」
註2: 唄遊び / うたあしび。即興で歌を掛け合う、いわばぶっつけ本番のセッション。かつての奄美の人々はこの唄遊びを日常的に行い、そのなかから現在まで伝えられている多くの島唄が育まれてきた。
註3: 祖父 / 須野の三味線名人として知られた恵純雄。里アンナの最新作『紡唄』に生前の歌声が収録されている。
――ということは、同じ時期に賛美歌と島唄に触れていたということですよね。
 「そうですね。子供のころは島唄を歌っている同い年の子はほとんどいなかったし、島唄はおじいちゃん・おばあちゃんが歌うものとされていたので、私はちょっと珍しい存在だったみたいで。当時は若い人にとっての演歌みたいなものですからね。今でこそ奄美でも学校や幼稚園で島唄を教えてるところもありますけど、当時はお祭りの八月踊り(註4)ぐらいしか島唄に触れる機会はなかったんです」
註4: 八月踊り / 五穀豊穣への感謝と祈りを捧げるべく、旧暦8月に行われる伝統行事。男女別れて輪になり、チヂンと呼ばれる太鼓を叩きながら歌い踊るもの。奄美群島の一部の島のほか、沖縄本島や鹿児島の一部の地域でも“八月踊り”という名称の行事が行われている。
――おじいさまはプロの唄者ではなかったわけですよね。
 「奄美の唄者の方は基本的に他の仕事もしながら歌っていらっしゃる方がほとんどなんですね。祖父も大島紬(註5)の仕事をやっていたので、その仕事を続けながら島唄を教えたり、お祝い事の場で歌ったり、大会で三線を弾いたり、そういうことをやってました」
註5: 大島紬 / 奄美大島の特産品でもある平織りの絹布。
――おじいさまは伝説的な唄者である里 国隆さん(註6)と交流があったとお聞きしましたが、ご親戚だったんですか?
 「母は“遠い親戚かもね”とは言ってましたけど(笑)。関西のほうにいらっしゃった上村藤枝さん(註7)という方と里 国隆さん、それと祖父が同じ集落で生まれたらしくて、よく3人で唄遊びをしていたそうなんですね。私自身、東京に来てから里 国隆さんのことを知ったんですよ。代官山のレコードショップで里 国隆さんのCDを見つけて、“里”っていう苗字は珍しいので“あれ?”と思って(笑)」
註6: 里 国隆 / さと・くにたか。1918年に笠利町須野で生まれた盲目の唄者。十代のころから竪琴を弾きながら樟脳を売り歩く大道芸人として活動をはじめる。75年に東京で開催された〈琉球フェスティヴァル〉に出演し、強烈にブルージーな歌声で大きな話題を集める。80年代半ばに死去するものの、現在も伝説の唄者として広く語り継がれている。
註7: 上村藤枝 / 1929年、里 国隆と同じ笠利町須野で生まれた名唄者。1953年に本土復帰する以前の奄美大島各地を周り、島唄の魅力を広めた現代島唄の功労者のひとり。2013年1月に83歳で死去。
――里 国隆さんの歌声を初めて聴いたとき、どう思いました?
 「パワフルだし、なによりも特徴的ですよね。昔の島唄は“みんなで歌って楽しむ”ものだったのが、今では“人に聴かせる”ものになってきてるんですね。そういう意味で同じ奄美の唄者でも里 国隆さんの世代と私の世代の歌はずいぶん違うし、国隆さんの歌はすごく衝撃的でした。ステージ上で歌うものが“歌”だとすれば、国隆さんは生活そのものを語っているような感覚を持ちましたね」
――なるほど。唄者の立ち位置や歌う対象が変わってきたことが歌そのものにも反映されつつあるという。
 「そうですね。やっぱり国隆さんの歌と祖父の歌は似てると思いますし、あの時代が育んできたものがあるんでしょうね。そもそも昔の島唄は歌詞が分からないように歌っていたらしいんですよ」
――えっ、どういうことですか。
 「奄美で“シマ”というのは島そのものではなく、集落のことを指すんですけど、昔はそれぞれのシマに独自の歌い方があったんですね。だから、いい歌を歌う人がいると、隣のシマの人が歌を盗みにきたらしいんですよ。なので歌詞を盗まれないよう、言葉が分からないように歌ったらしいんです」
――へえ、おもしろい!
 「今回のアルバムには祖父の生前の歌も入ってるんですけど、歌詞を聞き取ろうにも聞き取れない。なんて歌っているのか私でも分からないんですよ(笑)。私以上に方言を理解している母でさえ祖父の歌は分からなかったみたいで、“昔の人は(言葉が)分からないように歌うからねえ”と言ってましたね」
――じゃあ、アンナさんでも里 国隆さんの歌のすべては聞き取れない?
 「うん、全部は分かりませんね。私の世代の歌は分かりやすいと思うんですよ。だから、昔とはだいぶ違うと思いますね」
――シマによって歌唱法も違うわけですよね?アンナさんもルーツである須野の歌唱法を受け継いでいるんでしょうか。
 「島唄の歌唱法も大きく分けて(奄美大島の)北部と南部で違うんですけど、厳密にいえば、方言を聞いただけで分かる人にはどこのシマの人か分かるぐらい違うんですね。島唄も同じで、たとえば佐仁(註8)の歌い方はどれだけブレス(息継ぎ)しないで歌えるかというものなんですね。私の場合は須野の特徴を受け継いだ祖父から習ってきたので、やっぱり須野の特徴を無意識のうちに受け継いでるんでしょうね」
註8: 佐仁 / 奄美大島最北端に位置する笠利町の集落のひとつ。八月踊りが盛んな地としても知られる。
――アンナさんは小学校2年生のときに〈奄美民謡大賞〉という島唄の大きな大会に初出場され、18歳のときには新人賞を受賞されていますよね。島唄の唄者としての意識を持つようになったのはいつごろのことだったんでしょうか。
 「島唄に対して情熱を持てなかった時期もありましたし、そもそも島唄に対してあまり欲がなかったんですね。“あの歌を歌えるようになりたい”とか“あの大会で優勝したい”という欲がなかった。それが15歳のときに甲状腺の病気をしまして、手術をすることになったんですね。そのとき、先生に“もしかしたらこれまでのように声が出なくなるかもしれない”と言われたんです。それまであたりまえのように歌っていた島唄がもう歌えなくなるかもしれない。そのことにすごく恐怖を感じて……初めて“島唄を歌える”ということが自分にとってとても大切なことだと感じたんです。それから島唄を歌えることに感謝するようになりましたし、自分自身も変わったと思います」
――高校卒業後に上京され、その後ミュージカルなどさまざまな活動を展開されてきたわけですが、島唄に対する思いに変化はありましたか。
 「変化しましたね。奄美にいるときは島唄を歌える環境があることが当たり前だったし、三線を弾いてくれる人がいること自体が当たり前だった。東京に来てから自分がいかに恵まれていたのか分かったし、上京してからのほうが島唄に対する思いが深まったと思います。こうやって歌い続けてこれたのも、やっぱり島唄があったからだと思いますし。祖父が生きているうちに感謝の言葉を伝えたかったんですけど、それももうできないので……奄美に対する感謝の思いを込めて、自分にとっての原点を歌うアルバムをいつか作りたいと思っていたんですね」
――それが先日リリースされた最新作『紡唄』という形に結実した、と。
 「そうですね。伝統の島唄を紡いでいってほしいと思いと、私自身、紡いでいきたいという願いを込めて、『紡唄』というタイトルにしました」
原点を改めて見つめてみたかった
――アンナさんはこれまでの活動のなかでも島唄を歌ってこられたわけですけど、ゲストを招かず、ひとりで島唄をレコーディングするというのは今回初めての体験だったわけですよね?
 「そうですね。1枚目のアルバム(97年の『きょらうた』)は奄美民謡大賞の新人賞の記念として奄美のセントラル楽器さんから出していただいたものだったんですけど、そのときは祖父が三線を弾いてくれたんですね。その10年後にも1枚島唄のアルバムを作りまして(2007年の『島唄』)、その時は築地俊造さん(註9)が三線を弾いてくださったんです。今回はそうやってどなたかに弾いていただくのではなく、自分で弾いてみようと思って。私が三線を弾くようになったのも奄美を出てからで、伝統を受け継いでいくという意味では自分で弾いていかなきゃいけないと思うようになったんですね。それで30を過ぎてから三線を弾くようになったんですけど、今回はそれでアルバムを作ってみようと」
註9: 築地俊造 / 1934年、笠利町生まれの唄者。30代半ばより島唄を歌い始め、70年代を通じて数々の民謡大会で各賞を受賞。以降、国際的な活動も行い、奄美の島唄を代表する唄者として活動を続けている。
――また、今回のアルバムでは竪琴も弾いていらっしゃいますよね。かつては里 国隆さん、最近では65歳にして初アルバムをリリースしたことで話題になっている盛島貴男さん(註10)が弾いていることでふたたび注目を集めていますが、そもそも奄美でも竪琴は決してメジャーな楽器じゃないんですよね?
 「そうなんですよ。私自身、竪琴の存在は鼓童(註11)の方から初めて教えてもらったんですよ。鼓童は以前から奄美の竪琴を演奏されているんですけど、そのときは“奄美の竪琴?”っていう感じだったんですよ(笑)。それでその鼓童の方から盛島さんをご紹介いただいて、見よう見まねで弾くようになったんです。竪琴を弾きながら歌う方ってかつても国隆さんぐらいしかいなかったでしょうし、その後竪琴を弾いていた阿世知幸雄さん(註12)も亡くなってしまいましたからね。今やってらっしゃるのは盛島さんぐらい。私も竪琴を弾き始めてからまだ1年ぐらいしか経ってないので、まだまだ勉強中ですけどね」
註10: 盛島貴男 / 1950年、奄美大島生まれ。幼少時代に路上で弾き語る里 国隆を目撃。50歳を手前にしてその衝撃が蘇り、突如竪琴の演奏・制作を始める。近年まで知る人ぞ知る存在だったが、今年に入ってから65歳にして初のアルバム『奄美竪琴』をリリース。モンゴルのホーミーを思わせる強烈な歌声と竪琴の音色、特異な半生が注目を集めている。
註11: 鼓童 / 新潟県の佐渡島を拠点とし、1981年に設立された和太鼓集団。
註12: 阿世知幸雄 / 1932年、龍郷町安木屋場生まれの唄者。大阪で20年間を過ごしたあと、奄美に帰省。唄者として本格的な活動を行う。2013年に死去。
――実際に竪琴を演奏してみて、いかがでした?
 「三線を習うときによく言われたのは、“島唄を歌えたら三線はすぐ弾ける”ということだったんですね。祖父の三線をいつも聞いていたからかもしないですけど、私の場合はすぐ弾けたんです。でも、竪琴は初めて手にするものだったから、本当に手探り。YouTubeにアップされていた盛島さんの映像を見ながら覚えつつ、自分の歌い方に合うように演奏法を考えてきた感じです」
――アルバム『紡唄』の話に戻ると、5歳のころのアンナさんの唄が収録されてますよね。
 「島唄を習い始めたころから、ある程度唄を覚えると1年に何回か必ず祖父がカセットテープで録音してくれてたんですよ。ここに入ってる〈あんちゃんな〉という歌は祖父が初めて教えてくれた歌で、今回はそれを収録したかったんです」
――録音された場所の空気感まで伝わってきてグッとくる録音ですよね。途中、アンナさんも少し咳き込んじゃったりして。
 「そうなんですよ(笑)。昔のカセットテープなのでノイズも入っているんですけど、あえて直さずそのままにしました」
――「俊良主」(註13)ではおじいさまである恵 純雄さんの生前の歌声も聴くことができますが、これがまた本当に素晴らしい歌声で。
 「そうですよね。これは祖父が70代のときの音源だと思います。祖父は毎日1時間三線と唄の練習をしてたんですけど、あるとき癌になってしまって。入院中は三線の練習ができないじゃないですか。その後退院したんですけど、しばらく練習してなかったので声も出なくなってたんですね。でも、そこからまた歌えるように毎日練習するようになって。ここに入ってるのはそのときの音源です」
註13: 俊良主 / しゅんじょしゅ。明治初期、基 俊良という実在の人物の妻が事故で亡くなった際、基 俊良を慰めるために歌われ始めたという歌。奄美の島唄を代表する1曲。
――そんな時期の歌とは思えないぐらい張りとツヤのある歌声で、本当に感動しました。
 「ありがとうございます。祖父は私の唄に合わせられるぐらいだから、もともとすごくキーが高いんですよ」
――アルバムの構成もおもしろいですよね。そのおじいさまの「俊良主」が12曲目に入っていて、アルバムの最後を飾る13曲目では同じ「俊良主」をアンナさんがアカペラで歌うという流れになっていて。
 「奄美の唄者はひとりひとり個性があるわけですけど、祖父から教えてもらった歌も私ならではのものになってると思うし、そうしていかなくちゃいけないと思ってるんですね。そういう違いも表現したくて、同じ〈俊良主〉をアカペラで歌うことにしたんです」
――大島紬のようにひとつの歌を丁寧に紡いでいく、そういうアンナさんの姿勢が2つの「俊良主」と『紡唄』というタイトルに表れてますよね。
 「そうですね。1曲目の〈山原〉という歌は沖縄から伝わってきたものとされてるんですが、形を変えながら現在まで受け継がれている。そういう歌を最初に収録したかったんです。また、2曲目の〈長朝花〉はもともとお祝いの歌なんですけど、違う歌詞にしたいなと思って歌詞を探してたところ、“私はまだ小さくて歌を知りません。おねえさんたち、私に歌を教えてください”という歌詞があったんですね。それで“おねえさん”を“おじいちゃん”に変えて、“おじいちゃん、私に歌を教えてください”という歌詞に変えたんです」
――97年に奄美民謡大賞の新人賞を受賞したときの楽曲「黒だんど」も改めてカヴァーされていて、今までのアンナさんの人生が1枚のアルバムで紡がれているわけですね。
 「今回は原点を改めて見つめてみたかったんです。祖父に教えてもらったのは教訓歌が多かったんですけど、島唄自体は恋愛をテーマにしたものも多いんですね。今ではそういうものも歌えるだろうということで幅広いテーマに取り組んでみました」
――今後の活動についてはどのようなイメージを持っていらっしゃいますか。
 「島唄にベースを置きながら、いろんな人と競演したいと思ってます。6月にはアルゼンチンのマリアナ・バラフさん(註14)と競演させていただいたんですけど、私と同じように昔から伝わるものをやってる方なので共通点を感じる部分も多くて。三線と唄を基本にしつつ、いろんな方と競演していきたいですね」
註14: マリアナ・バラフ / アルゼンチンのブエノスアイレス生まれで、現在はサルタを拠点とするアーティスト。アルゼンチン各地のフォルクローレや土着的なリズムを採り入れた音楽世界が国際的に評価されている。里アンナとは2015年6月3日に東京で行われた来日公演の際に競演。
レコード会社スタッフ 「マリアナも“アンナは完璧”と言ってましたね。競演のときも一緒に合わせてみたら、すぐに合ってびっくりしてました」
 「嬉しいですね。私が歌うアカペラの〈長朝花〉の上に、マリアナさんがアルゼンチンの北のほうの歌を重ねるという場面があったんですけど、まったく違う歌なのに、びっくりするぐらいピッタリ合ったんです。不思議な感覚も覚えましたし、奄美とアルゼンチンで生まれた2つの歌がどこかで繋がってるんだという実感も持ててすごく感動しましたね。ブルガリアン・ヴォイスを初めて聴いたときも奄美の南のほうの歌い方そのままでびっくりしたことがあって」
――奄美の小さなシマでひっそりと紡がれてきた歌であっても、同じように世界のどこかで紡がれてきたものとふと共鳴し合うことがあるということですよね。
 「そうなんですよ。おもしろいですよね」
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