大石 始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第24回: 盛島貴男 [奄美大島編]
竪琴を手に、まるで浪曲師のようなガラ声で唸るそのパフォーマンスが各界で話題を集めている奄美大島の異才、
盛島貴男。彼に初めて話を聞いたのは2015年10月のことだった。
その際、「奄美にいらっしゃい」と言われた僕はその言葉を真に受け、最初のインタヴューから2週間後、奄美大島某所に立つ盛島の工房を訪れた。空港から指定された場所へと車を走らせていると、国道から本当に“青テント”が見えてきてびっくり(“青テント”についてはインタヴュー
前編参照)。広大な敷地には竪琴製作用の工房のほかステージや練習スタジオもあり、僕らが到着するやいなや、番犬がけたたましく吠え始めた。えっ、ここは本当に日本?
インタヴューには盛島のほか、彼とは十代のころからの旧友であるという秋月國松さんも同席(盛島のマネージメントをやっているらしい)。全員酒が回っているため会話はだいぶヨレヨレだが、東京では聞くことのできなかった深い話を聞くことができた。
人間辛抱すればそのうち光があたる(笑)!
――“青テント”の看板、目立ちますよね。国道からすぐに分かりましたよ(笑)。
盛島 「あ、分かった(笑)?あれ、手描きっちょ」
――盛島さんがここに住みはじめて何年ぐらいなんですか。
盛島 「忘れた(笑)」
秋月 「10年じゃきかんだろう。第一サティアンができたのがそれぐらいか」
――サティアンって(笑)。
盛島 「すぐそこに波乗りできる手広海岸という場所があるのよ。その近くで襖屋さんをやってたわけ。僕はワケのわからん仕事をいっぱいやってるのよ。あるときはダンプ乗り、あるときはログハウスを作ったり。もともとはログハウスを作るためにこの場所を借りたわけよ。フォークリフトとかで建材を運ばなきゃいけないから、スペースが必要で」
――先日の東京のライヴではステージ横に盛島さんのお友達の方々が陣取っていて、指笛を吹いたり楽しげにされていましたよね。あれは奄美の方々?
盛島 「そうそう、みんなあの一角に収容した(笑)。みんながヤジ飛ばしてくるから」
秋月 「指笛のやつは横浜から強制的に呼んだのよ(笑)。僕らじゃ吹けんから」
盛島 「やつは小指で吹く。原始人よ(笑)。昔の人はああやって小指で指笛を吹いてた。昼飯の時間になると、合図のためにあれを吹くわけ。響くわけよ」
――東京での初ライヴだったわけですけど、いかがでした?
盛島 「あんなところでやったこともないし、うまくいくなんて考えられないよ(笑)。みんな“おもしろい”って言ってくれたけど、歌がおもしろいんだか僕の話がおもしろいんだか(笑)。ふだんからあんな調子だで?」
秋月 「あれは大人しいほう(笑)。漫談みたいなもんだから」
――やる曲もその場で決めてましたよね(笑)。
盛島 「昼と夜の2ステージやったから、同じ歌をやるわけにはいかない。でも、アルバムに入ってる曲はそんなにやらなかった。半分ぐらいかな。あとは〈黒の舟唄〉(
野坂昭如)とか〈一番星ブルース〉(
菅原文太 /
愛川欽也)、〈リンゴ追分〉(
美空ひばり)とか。僕は奄美でも長時間のライヴをやったことがないのよ。やっても3、40分。それも年に1回とか。東京でやったことを
南海日日新聞で紹介してくれたんだけど、それで奄美の人たちも何をやってるのか理解してくれた(笑)。僕はおそらくこのへんでも何をしですかすか分からない人間ということになってる。悪い意味じゃないよ(笑)。でも、新聞に載ったもんだから見直してるのよ。人間辛抱すればそのうち光があたる(笑)!」
――わはは、いい話ですね!
秋月 「そのうちユニフォームの肌シャツで外を歩けなくなる(笑)」
乗った船には乗るっちょ
――さて、今回は東京のインタヴューで聴けなかったことについて質問させてください。盛島さんは奄美の名瀬で育って、一度東京で働いていた時期もあったんですよね?
盛島 「高校を卒業した昭和43年から50年までの7年間は東京と奄美を行ったり来たり。でも、ほとんど東京だね。皿洗いをやったり、鉄筋工をやって飯場暮らしをしたり。“浪曲子守唄”(註1)の世界よ。そのあと(東京都練馬区の)大泉学園で内装工事。夢を持って東京に出ていったけど、いつのまにか夢も消えちゃってたわけよ(笑)。それで昭和50年に奄美に帰ってきた。そのあとも時々出稼ぎみたいにして東京には行ってたけど」
註1: 浪曲子守唄 /
一節太郎が1963年に放ったヒット曲。「逃げた女房にゃ未練はないが / お乳ほしがるこの子が可愛い」という歌詞で知られる。1966年には同曲を下地とした映画も制作。主演は
千葉真一。
秋月 「大石くんね……後輩だから大石くんでいいよね?」
――はい、もちろん。
秋月 「この人、やめるのは得意だから(笑)。でも、向こうの音楽雑誌なんかに載ったらもうやめられないでしょ?」
――東京の人たちがやめさせないですよ(笑)。
盛島 「乗った船には乗るっちょ。銭なんかいらんちょ。(“プシュッ”と缶ビールを開ける)……それにしてもハジメさん、
里 国隆のように迫力ある歌を歌える人はなかなかいないね。なんちゅうか、(島唄をやる人は)ハイソサイエティの人たちが多いから。僕なんか土着民だから」
秋月 「土着民だからこそアフリカやモンゴルの歌を理解できるわけよ。そういう民族音楽を理解できる」
――ああ、なるほど。同じ視線で捉えることができるわけですね。
盛島 「まあ……猿回しの猿みたいなもんよ(笑)」
――東京に出る前、高校生のころの名瀬では島唄も一切なかったそうですが、八月踊り(註2)もやってなかったんですか?
註2: 八月踊り / 旧暦八月、奄美大島の各集落で歌い踊られる伝統行事。五穀豊穣への感謝と翌年の豊作祈願の思いが込められている。
盛島 「できるわけない。あの時代、田舎から名瀬に通ってる同級生なんかは夏休みに実家に帰ったときに八月踊りをやってたけど、名瀬では方言排他運動があったから。民主主義の国家としてみんな一律に標準語を理解させ、統制をとるために行われていたんだろうな。今は〈島の文化を大切にしよう〉と、学校で島言葉を教えてる。逆になってる」
――ということは、盛島さんは八月踊りにも島唄にも触れずに育ったわけですね。
盛島 「そのかわり、どの部落にいっても六調(註3)は踊れる。自分のやり方で踊ればいいんだから、得意っちょ(笑)。でも、輪になってちゃんと踊ろうと思うとなかなか難しい」
註3: 六調 / 結婚式などお祝いの席で演奏される、テンポの速い踊り唄。通常は三味線やチヂンと呼ばれる太鼓によって演奏される。
単に“焼き芋!”って言って回るだけじゃ売れない
――あとですね、気になったのはやっぱり盛島さんの歌唱法なんです。こないだのインタヴューではモンゴルのホーミーからの影響とおっしゃってましたけど、ライヴを拝見していたら香具師の口上(註4)みたいな感じがしたんですよね。それと、やっぱり浪曲。(二代目)広沢虎造(註5)を思い出しました。 註4: 香具師の口上 / 香具師(やし)とは神社の祭礼などで露店を出し、見世物などの芸を披露したり、歯切れのいい宣伝文句(口上)してさまざまな物品を販売する人々のこと。的屋とも呼ばれる。
註5: 二代目・広沢虎造 / 1899年に生まれ、1964年に死去した浪曲師。独特のダミ声で絶大な人気を誇った。
盛島 「浪曲師が好きっていうより、
三波春夫が好きなのよ。あの人の歌はみんな歌える。声質が似てるのかな。あとは〈浪曲子守歌〉の一節太郎。あの人たちの歌は歌いやすい。ただ、浪曲も聞くのは聞くよ。(初代の)
京山幸枝若とか広沢虎造とか。ただし、モノマネするだけ。“旅ゆけば〜”(と広沢虎造の声色を真似る)ってね。“油がたら〜りたら〜りと”っていうガマの油売り
(註6)の口上も好きなわけ」
註6: ガマの油売り / ガマの油とは筑波山名物として江戸時代から販売されていた軟膏。古くから香具師による独特の口上と共に販売されていた。
――ガマの油売りの口上は東京に住んでるときに観たんですか?
註7: 『日本の放浪芸』シリーズ / 70年代初頭、俳優である小沢昭一が日本各地をまわって録音した放浪芸の音源集シリーズ。寄席や舞台を主な活動場所としない路上の放浪芸人たちの芸を全4巻に亘って収録。今年に入ってから新装版として復刻された。
――そうなんですか!
盛島 「金魚売りとか芋売りとか、ああいうのも好きなんよ。焼き芋売りも“ホッカホッカ〜”って本当に美味しそうに表現する。単に“焼き芋!”って言って回るだけじゃ売れない」
――昭和30年代の奄美にはそういう物売りはいなかったんですか。
盛島 「いたね。奄美が本土復帰した後(昭和28年)は物もなにもなかし、そこに鹿児島から行商人がやってきて、名瀬の町でいろんなものを売りさばいた。そのときに内地の人たちは一気に金持ちになったわけ。傘の修理とか飴売りとか、いろんな商売人が奄美にきたし、詐欺師みたいなものもいた」
――そして、そういう行商人のひとりに影響を受けて里 国隆さんは竪琴を弾くようになったと。
盛島 「僕はそう思う」
うまく歌って、それを誰かに聴かせようというものとはちょっと違う
――それにしても、盛島さんが里 国隆さんの歌にそこまで惹かれるのはどうしてなんでしょうね。東京でお話を聞いていて、その点が気になったんです。
盛島 「なんで里 国隆を好きになったか?……蔑まれてきた人間の迫力というものが歌にあったからだろうな、それは。僕が子供のころは娯楽がなかったから、外から来るものには興味津々。だから、子供のときに道端で観た里 国隆の歌も強烈に記憶に残った。テレビもラジオもない時代だからね。昔から奄美にそういうものがあれば、僕なんてもっと早くスーパースターになっとる(笑)。だから、65になってデビューしとるわけよ」
――そういえば、里 国隆さんは「歌はうまく歌わなくていい。大きな声で歌えばいい」とおっしゃっていたそうですね。
盛島 「わはは。正直に言うけどね、演歌歌手の媚びたヴィブラートって蕁麻疹が出てくる(笑)。それだったらロックやポップスの人のほうがもっと素直に自分のことを表現しとる」
――里 国隆さんの突き破るような声のほうがしっくりくると。
盛島 「そうそう。瞽女の小林ハルさん(註8)の歌なんかもそう。“相手に伝えよう”という意識が見える声ではなくて、勝手に伝わってくる声。聞く側に情景が浮かんでくるような声ね。うまく歌って、それを誰かに聴かせようというものとはちょっと違う。僕はそう思う。上手いヘタではないし、自分の声で歌えばいいわけだけど、音痴が歌ったら意味ないわけや。そこは難しいところ。いろんな歌があるけど、それを僕なりの歌い方でやれば、全部僕のブルースになるわけ」
註8: 小林ハル / 瞽女(ごぜ)とは北陸地方を中心に活動していた女性の盲人芸能者。数人でチームを組み、村から村へと渡り歩きながら芸を披露し、収入を得ていた。2005年に105歳で死去した小林ハルは〈最後の瞽女〉と呼ばれた人物。
――東京のライヴでやった「リンゴ追分」なんて素晴らしかったですよ。まさに盛島さんの「リンゴ追分」になってました。
盛島 「ああ、はいはい。まあ、あれと〈一番星ブルース〉のリズムが似てるわけよ。そういうリズムの共通性みたいなものが僕はすぐ分かる。韓国の〈アリラン〉と奄美の〈行きゅんにゃ加那〉も本当に似とる。勝手な解釈だけど、音階もリズムもそっくり(と、実際に歌ってみる)。……あんまり信用するなよ(笑)」
――ところで、いま島のなかで竪琴を弾いてる人ってどれぐらいいるんですか?
盛島 「同好会を作ってやってる人もいるけど、表立ってやってる人はいないな。竪琴というのは自分のオリジナル(な表現)をできる楽器。里 国隆も流行り歌を歌ったり、島唄を歌ったり、好きなように歌ってる。そこは僕も同じ。大道芸能の基本みたいなことをやってると思ってる。竹中 労はかつて“あそこに大道芸が残ってるんじゃないか?”と思って沖縄まで収録にいってるわけ。そのとき
照屋林助が録ってあった里 国隆の録音を竹中 労が聴いて、びっくりした。里 国隆は“戦争に負けた歌”を歌ってたわけ。そんな歌を歌ってる人はいなかった。都会の人たちはそういうアウトローの歌に耳を傾ける人がいるけど、当時の奄美にはいなかった。あのころに奄美の人たちが里 国隆の歌を録っておかなきゃいけなかったのに」
――確かに。
盛島 「僕も東京にいっていい勉強になった。人生後半戦、下り坂かもしれんけど、若い人と知り合おうてとても素晴らしいわけよ。普通は1年間のなかに知ってる人しか合わない。2、3人初めての人と知り合うぐらいのもんで。でも、今年は一気にたくさんの人と知り合おうたわけや。わっはっは」