大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第4回:ASA-CHANG 打楽器奏者/プロデューサーとして唯一無二の存在感を発揮し続けているASA-CHANG。福島県いわき市出身の彼が同地の伝統芸能、じゃんがら念仏踊りの団体に属し、その伝統に向き合うようになったのは昨年の震災以降のことだった。新盆(注1)の家を一軒一軒供養して回る鎮魂の儀式、じゃんがら念仏踊り――太鼓と鉦によるリズム、踊りと念仏的な唄で構成され、いわきを中心に北は福島県大熊町〜双葉町、南は北茨城に至る広い地域で継承されているこの念仏踊りについて、ASA-CHANGに語ってもらった。
なお、このインタヴューはASA-CHANGがじゃんがらの練習のため、いわきに入る直前、2012年7月23日に行なわれた。注1:新盆/亡くなって初めて迎える盆のこと。仏になった故人にとっては初めての里帰りでもある。初盆とも言う。
――子供の頃、じゃんがらはどのような存在だったんですか。 「夏の旧盆の時期になると(じゃんがらのリズムが)聴こえてこない年はなかった。僕は十代後半までいわきにいたので、それまでは毎年聴いていたとも言えますね。僕の家は町場(まちば)って呼ばれる(いわきの)中心地の片隅にあったんですけど、そういう場所ではじゃんがらをやる習慣がなかったし、僕にとってのじゃんがらは“別の地域からやってくる”ものだったんです」
――いわきでも地区によってじゃんがらを取り巻く環境がだいぶ違うわけですね。
「そうそう。それこそ隣り合った地区でも違うし、そもそも“やりたいから習う”というものでもなくて。村祭りの太鼓だったらそういうこともあるかもしれないけど、じゃんがらは村祭りとはまったく別のものだったんです。つまりね、ちょっと田舎のほうの農家とか漁師の家の場合はじいちゃんの前の前の時代からずっと続いているものだから、子供の頃から練習風景も間近で見て育ってるわけですよ。そういう風に代々じゃんがらをやってきた家庭では、子供たちもある程度の覚悟を決めてるみたいなんです。好き・嫌いじゃなく、じゃんがらをやるもんだ、と」
――田舎のほうではそういう家庭が一般的なんですか。
「いや、そうでもないですね。じゃんがらは地域の青年会を母体としてるんですけど、青年会組織がしっかりしてるところじゃないと、そういう家庭も少ないと思います。同じいわき人でも僕みたいなのもいるし、さまざまなんですよ。だから、僕にとってのじゃんがらは“よく知ってるけど、自分がやるものじゃない”っていう感覚だったんですね」
――そういう意味でも、誰もが輪に入れるような盆踊りとは違うわけですね。
「そうですね。なにせお盆のお宅の中に入っていって奉納するわけですから。それに身体の動きや太鼓の叩き方もものすごく独特なんですよね。すり足で動いたり、飛び跳ねたり、しゃがんだり、そういう動きをしながら太鼓を叩く。地元の人は“朝倉さんはプロだからすぐにできっぺ”と言うんですけど、いわゆるポップミュージックの打楽器アンサンブルとはまったく違うんですよ。“じゃんがらはじゃんがら”だとつくづく思いますね」
――ただ、震災前はご自身でじゃんがらをやるとは思っていなかった?
「思ってなかった。普通に“じゃんがらをできない、いわき出身の打楽器奏者”のままだったでしょうね」
――じゃんがらの団体に入ろうと決心したきっかけは、津波によって多くの被害が出たことだった、と。
「それと……他のアーティストの行動を見ていて、考えさせられることも多かったんです。被災地の人たちにとって“誰だっぺ?”という人たちがいきなり現れて、その人の歌を歌ってる姿を見て、合点がいかなかった。田舎だから、やっぱりテレビに映ってる人じゃないと誰だか分からないわけですよ。だから、僕の音楽を向こうでやっても機能しないんじゃないかと思ったんですね。それ以上に“がんばれ”と言う前に津波による犠牲者に手を合わせるのは普通なんじゃないかと思って。それで僕はじゃんがらをやることにしたんです」
――それで上高久(注2)の青年会に入るわけですね。 注2:上高久/いわき市平上高久。いわき中心部から東南に数キロ離れた静かな村。
「僕の実家の周りには青年会がないから、団体探しから始まるわけです。でも、そう簡単に受け入れてくれるものじゃない。もちろん若い人が少ないから人材不足なんですけど、いろいろあるわけで……その中で上高久青年会のOBの方が僕を受け入れてくれたんです」
――その方はおいくつぐらいの方なんですか。 「OBといっても35歳。一演目20分のものを1日に何度もやるわけですから、体力のある若い人しかできないんですね。それで通常は35歳だと引退している年齢なんですけど、後継者不足ということでその方は今も続けていて。僕にとって、その方は本当のカリスマ。ここ最近太鼓であんなに感動したことはないです。世界中で巡り合った、名だたる太鼓のマエストロのいろんな演奏を見てきましたけど、彼の太鼓の表現のクオリティはそれらと同等だと断言できますね」
――その方の凄さをあえて言葉にすると……。
「言ってしまえば、
ザキール・フセイン(注3)やドゥドゥ・ニジャエ・ローズ
(注4)を観ているみたい。動きひとつも違う。ものすごく高く腕を上げたあと、瞬間的に低くしゃがみこんだりする。本当に凄いんですよ。彼が僕を受け入れてくれる際、“でも、ひとつ条件があります”って言うんですね。“1年目は鉦(かね)をやってもらいます。朝倉さんだからといって、最初から太鼓をやってもらうわけにはいきません”と」
注3:ザキール・フセイン/世界最高峰のタブラ奏者。
注4:ドゥドゥ・ニジャエ・ローズ/セネガルの伝説的パーカッション奏者。自身のパーカッション・オーケストラを率いて幾度となく来日公 演を行っており、日本でも高い知名度を誇る。
――なるほど、新米は鉦をやるもんだ、と。
「そうそう」
――ただ、鉦といってもそんなに簡単に叩けるわけじゃないですよね。
「そうなんですよ。確かにリズム・ストラクチャー自体はシンプルなものなんですけど、それをやりながら動いたり踊ったりするわけですし、さらに1日何回もやるわけで、そんなに簡単なものじゃないんです」
――リズムも複雑ですよね。鉦と太鼓がズレたり寄り添ったり、単にミニマルに繰り返すだけじゃないところとか。
「そうですね。浮遊したり、同調して熱くなったり、ポリリズミックでものすごく独特なリズムですよね。それは子どもの頃から感じていました」
――そのリズムも地区ごとに違うわけですよね?
「リズムも違うし、歌も違うんです。だから、他の団体を聞くとすごく気持ち悪いというか、不思議な感じがするんですね。いわきだけで100以上団体があるので、それぞれに違うわけで。もちろんその中には子供の団体もあるし、温泉の女将がやってる団体もあるんですけど」
――太鼓を叩くバチも独特ですよね。 「マレットみたいにフサの部分で叩くもんだと思ってたんですけど、これはただの飾りなんですよ。このバチを回すと、ちょっと魂みたいな感じになるんですよね」
――霊魂が飛んでるようなイメージというか。
「そうそう。友達の打楽器奏者は“ネイティヴ・アメリカンみたい”って言ってましたね。もしくは南米のものとか、少なくとも日本ぽくはないですよね」
――韓国の農楽(注5)みたいな雰囲気もありますし。
注5:農楽/韓国語読みで“ノンアク”。五穀豊穣を祈る農民たちの演舞として古くから伝わるもの。それを舞台芸能として近年アレンジしたのが、世界的にも知られるサムルノリ。
「サムルノリとか、ね。でも、東北の人はほとんどサムルノリのことを知らないんですよ……不思議ですよね」
――素朴な疑問なんですが、新盆のお宅のほうからじゃんがらの団体を呼ぶわけですか?
「今はそうなってますね。30年前は違っていて、灯籠が立っている新盆のお宅があれば自由に入っていけるシステムだったみたいです。先頭を歩く提灯持ちの方がそのお宅の方と交渉し、許可が得られたら奉納する、と」
――1日に何軒ぐらい回るものなんですか。
「団体によって3日間のうち2日しか回らないところもあるし、軒数も変わってきますね。多いところでは1日10軒20軒回るところもあるでしょうし。2011年度の上高久青年会は3日間で約40箇所くらい回りましたかね……炎天下だったのであんまり覚えてないんですけど」
――それはハードですね。で……僕が一番気になっているのは、いわきの人たちにとってじゃんがらとはどういうものなのか、ということなんですよね。
「“何があろうとやらなきゃいけない”っていう使命感もあるだろうし……理屈じゃないんですよ。震災でご家族が亡くなった方もいれば、家が流された方もいる。避難生活を続けながらじゃんがらをやってる人もいるわけで、単に“楽しいからやるもの”じゃないんですね。それは震災以前からそういうものだったんだろうし、それは変わってないし、変えられない。福島という土地にそういうものがあってもいいだろうし、変えてしまったら伝統芸能じゃないわけですからね」
――なるほど。
「僕にしたって、ひょっとしたらじゃんがら団体と1日コラボするだけで終わらせることも可能だったかもしれない。普通はそうしますよね? でも、そうは問屋が卸さなかった。自分の中の問屋がね。打楽器奏者のASA-CHANGではなく、個を消し、匿名になる。しかもそういう僕を受け入れてくれる団体があったことが幸運でしたよね」
――じゃんがらって不思議な習慣ですよね。念仏踊りであることは間違いないんだけど、じゃんがらという習慣がなぜいわきを中心とした一部(と、長崎の平戸)だけに残ったのか。その由来もはっきりしないわけですし。
「そうですよね。そもそもどうしてこびり付くようにあのへんだけに残ったのか。いわき人気質みたいなものはあるのかも。東北の中でも荒い気性を持ってるところもあるし、そのへんは自分でもよく分からないけどいろんな理由があるんでしょうね。ただ……じゃんがらをうまく紹介できないもどかしさみたいなものが自分の中には常にあるんですよ」
――もどかしさ?
「そう。由来や広域性みたいなことよりも、“弔う”ための郷土芸能が300年も続いてきたのか。そして、家族が亡くなった家を一軒一軒回っていくという途方に暮れるようなことを今も続けているという“弔い”の思いの強さ」
――かつて念仏踊りが各地に残っていたときはそういう“弔い”の思いをみんな持っていたと思うんですよ。現代に生きていると、そういう意識は――家族や友人が亡くならないかぎり――なかなか持ちにくい。そんな現代においては、じゃんがらはとても貴重なものだし、とても特別なものに思えるんです。
「でも、いわきの人たちにとっては自然にあるものだし、僕も自然に入れるんじゃないかと思ったら……入れなかったわけです。太鼓叩きとしてのスキルがまったく活かされなかったんだから」
――そして今年もいわきに戻るわけですね。
「そうですね。青年会の人たちに“朝倉さん、1年で帰っちゃうのけ?”って言われたんですよ。1年で帰っちゃうのは、ミュージシャンが被災地で1回ライヴをやって帰っちゃうことと変わらないんだよね。“来年は太鼓だかんね”って言われて……」
このインタビューの後、僕は8月14日からの3日間、いわきを訪れた。ASA-CHANGが中心となって進められているプロジェクトFUKUSHIMA! IWAKI!!(注6)が企画したUSTREAM番組に出演するのが主な目的だったが、番組放送前、じゃんがらの奉納も拝見させていただいた。 ――旧盆の時期、いわき市内を車で走ると、至るところに小さな灯籠が立っていることが分かる。インタビュー中でも触れているように、それは新盆を迎えたことを示すサインでもあるのだが、その灯籠があまりにも自然にいわきの景色に溶け込んでいたことにまず僕は驚いた。 じゃんがらの奉納は実に厳かなものである。なにせ魅力的な太鼓のリズムやダイナミックな舞いは僕のような野次馬のために奏でられているのではなければ、新盆を迎えたお宅のために奏でられているのでもない。言うまでもなく、じゃんがらは遺影が飾られている故人のためのものであり、その点ひとつとってもASA-CHANGが何度も口にしていた“じゃんがらは郷土芸能である以前に鎮魂の儀式”という言葉の意味が強く実感させられる。そもそも日本全国に伝わる盆踊りも、かつては先祖の霊を鎮めるためのものだった。そのルーツに近い姿をじゃんがらから感じとることも可能だろうが、じゃんがらの輪の中に盆踊りのような熱狂は一切ない。個を消し、ひとつの輪となって、そのコミュニティの中で代々受け継がれてきたじゃんがらを淡々と奉納する。いわきではそんなことが300年も行なわれ、震災以降も当たり前のようにその習慣が続けられている。その事実を前にして、僕は頭をガツンと叩かれたような気がした。
「青年会の人がこう言うんですよ。“朝倉さんは津波で亡くなった方を弔うためにこっちに来てるんだと思うけど、亡くなった人に対しては、津波でも病気でも事故でも平等に供養するんです”って。当たり前のことなんですけどね」(ASA-CHANG)
インタビューの最後、「“来年は太鼓だかんね”って言われて……」と言って目頭を押さえたASA-CHANGの気持ちを僕は代弁することなんてできない。ひとつ言えるのは、いわきの人たちにとってのじゃんがらとは自ら断ち切ることはできない伝統であり、2012年現在においてもリアルな日常であり続けている、ということだ。