大石始 presents THE NEW GUIDE TO JAPANESE TRADITIONAL MUSIC
第9回:ヨシダダイキチ秋田民謡とシタール
荷方節(梅若会+ヨシダダイキチ)
インドの弦楽器、シタールのことは皆さんご存知だろう。北インドを発祥とするこの弦楽器は同国の古典音楽やポップスで使用される一方、60年代から欧米をはじめ各国の音楽家によって新たなアプローチを試みられてきた。ヨシダダイキチはそのシタールを通じて独自の音楽世界を切り開き続けてきたミュージシャン。YOSHIMI(BOREDOMS/OOIOO)とのSAICOBABA、UAや朝崎郁恵などとのさまざまなコラボレーション。民族音楽の新たなアプローチを試みるアラヤヴィジャナ、sitaar-tahなどさまざまなユニットを率い、シタールの持つ無限の可能性を引き出してきたことでも知られている。そんな彼は近年、秋田民謡界の大御所・梅若会と競演を重ねるほか、孤高のシンガー・ソングライター、二羽高次との活動で福島を代表する民謡「会津磐梯山」をカヴァーするなど、日本の伝統音楽に対しても独自のアプローチを続けている。日本の伝統芸能を掘り下げつつ、“未来のアジア音楽”を見据えた活動を展開中のヨシダダイキチ。時に哲学的、時にジョークを交えながら繰り広げられるヨシダ式日本伝統文化論は実に刺激に満ちたものだった。 「アジアのアグレッシヴでカオスな部分に衝撃を受けていたので、ドラムを入れて爆音でシタールを弾きたいと思ってたんです」
――ご出身は和歌山ですよね? 「そうですね。和歌山の北部の工業地帯で、僕が子供の頃は海辺を埋め立ててコンビナートを作っていた時期だったんですよ。音楽的には、ウチのおばあちゃんが芸能好きな人で、家で民謡や歌謡曲のレコードをよくかけてたということが今に繋がってると思ってます。おばあちゃんはNHKの〈のど自慢〉に出てますからね(笑)。昭和30〜40年代は民謡がブームだったんですね。ラジオ、TV、レコードで全国的に広まり、高度成長期の集団就職の人たちのブルージーな感情を支えるものとしても民謡の存在が重要だったと思います。そういう時代だったので、おばあちゃんが大漁節なんかを歌ってたことは覚えてます」
――和歌山の地元の民謡というよりも、当時ラジオやテレビから流れていた民謡ということですよね。ある種の流行音楽というか。
「そうそう。……子供の頃は全然好きじゃなかったけど(笑)」
――わはは。まあ、そうですよねえ。
「小学生の頃からギターを弾くようになって、
ビートルズや
(エリック・)クラプトンなんかを聴いてたんですよ。最初に本気でカヴァーしたのは
サイモン&ガーファンクル。だから、民謡はものすごく嫌いだった。あの時代はみんな洋楽指向で、日本の歌って湿っぽくてビートがなくて、日本語をいかに英語っぽく歌うかということを一生懸命競っていた時代ですからね」
――それからどういったルートでシタールに出会ったんですか?
「ハタチ過ぎの頃――ちょうどバブルが終わったぐらいの時期で――ロック/ポップス系のバンドでCDを出したりもしてたんですけど、そのバンドがポシャっちゃって。当時大道具のアルバイトもしてたんですけど、大道具の現場は自由な人たちが多くてガッと稼いで世界中回ってる人がまわりにいて、その影響もあってとりあえずバックパッカーでもやろうと。それで大阪の南港から出てた鑑真号(注1)に乗って上海に入り、中国を横断したんです。そのとき雲南省に行って、ものすごい刺激を受けてしまって。その後、友達が中古レコード屋をやるっていうんで、買い付けの手伝いでロンドンに行って。その帰りにまたアジアをフラフラして、流れでインドに辿り着いたんです」
注1:鑑真号/85年から94年まで就航していた中国籍の貨客船。現在は新鑑真号が南港および神戸港と上海港の間を結んでいる。
――最初は音楽的興味からインドに辿り着いたというわけではなかったと。 「違うんですよ。シタールは世界的に有名なので、バラナシ(注2)みたいな観光地では、客を騙してシタールを売るみたいな商売も盛んで……そこで騙されたんです(笑)。でも、シタールのチューニングや演奏方法、インド音楽の構造などの基礎はバラナシのローカルの人に習ってそこで学びました。そうこうするうちに日本に帰ってみたら、ちょうどレイヴ・カルチャーが始まった時期だったんですね」
注2:バラナシ/インドはウッタル・プラデーシュ州の都市。ガンジス川沿いに位置し、かつてからヒッピーやバックパッカーが集まるインド有数の観光地でもあった。
――90年代半ばですね。
「そうですね。〈RAINBOW2000〉(注3)が始まったぐらいの時期。それまでの水商売っぽいクラブの感じから、草の根的というかヒッピーぽいレイヴ・カルチャーが始まった。で、帰国後に日本人シタール奏者のライヴも観に行ったんですけど、お香を焚いてる感じというか、法事みたいなライヴばっかりで(笑)」
注3:RAINBOW2000/96年8月10日に日本初の大規模野外レイヴとして第一回が開催され(アンダーワールドや石野卓球、ケンイシイらが出演)、その後断続に継続されてきた巨大野外フェスティヴァル。
――わはは、法事って!
「当時、若かったこともあるし、貧乏旅行の中でアジアのアグレッシヴでカオスな部分に衝撃を受けていたので、今はそういうインド音楽のアンビエントな部分もすごく理解できますが、当時はドラムを入れて爆音でシタールを弾きたいと思ってたんですね。そういうスタイルがレイヴ・シーンと合致するものがあったみたいで、レイヴに呼ばれるようになっていったんです。それでBOREDOMSを中心とするアンダーグラウンドなサブ・カルチャーと関わりを持つようになって。だから、僕はすごくラッキーだったと思いますね。今でもBOREDOMSには感謝しています」
――アジアに意識が向かっていく中で日本の文化に対する意識も変化していった? 「(シタールと出会ってから)最初の10年はそんなにないですね。(日本の民謡を)強く意識するようになったのは、今の師匠であるウスタッド・シュジャート・カーン(注4 / 写真右)に弟子入りしてからです。師匠はシタールを弾きながら(インドの)民謡を歌うんです。ライヴで行った先々でその土地の民謡を歌うんですね。そうすると、客がものすごく盛り上がるんですよ」
注4:ウスタッド・シュジャート・カーン/現代インドを代表する世界的に活躍するシタール演奏家。シタールだけを継承し各世代がシタールに大きな革命をもたらしてきたイムダッド流派の7代目。2004年にはアルバム『Rain』がグラミー賞ワールドミュージック部門にノミネートされた。
――自分たちの土地の歌だから。
「そうそう。古典音楽は、ある意味厳格でテクニカルな音楽なんですけど、民謡は全然違う。そういうものを師匠を通して見聴きしていたら、そこにソウル・ミュージックとしての強さを感じさせられたんです。外国人から見た珍しいエスニックやオリエンタルなものというのではなく、音楽の背景にあるものや底辺にあるものが見えてきて、師匠が歌う民謡やシタールのコブシ、おばあちゃんが歌ってた日本の民謡、最初に行った雲南省の少数民族の歌なんかがガーン!と一致しちゃったんですね」
「文化っていろいろな要素が時空を超えて相対的に複雑に入り組んでる状態なんだなぁと実感してます」
『アラヤヴィジャナII』
――実際に民謡と関わりを持つようになったのは、アラヤヴィジャナのアルバム『アラヤヴィジャナII』で朝崎郁恵さん(注5)と一緒にやってから? 注5:朝崎郁恵/奄美群島・加計呂麻島出身の唄者。十代から活動を始め、現在まで奄美島唄の伝承者のひとりとして国内外で活動。UAやGONTITIなど幅広いジャンルのミュージシャンと競演していることでも知られている。アラヤヴィジャナとの競演曲を含む『アラヤヴィジャナII』は2005年作。2007年には“朝崎郁恵×ヨシダダイキチ”名義によるコラボレーション・アルバム『はまさき』がリリースされている。
「そうですね。アラヤヴィジャナ自体、アジアの様々な音楽と日本人としてのルーツを、現代的に表現するというコンセプトを掲げてきたんで、朝崎さんのアルバムを聴いて“この方を呼びたい!”と思ったんです。“西洋と東洋の融合”を掲げたアルバムはすでにあるわけだし、自分たちのルーツを打ち出していく必要があると考えたんですね。だいたいアジア人でもある日本人がアジア楽器のひとつのシタールを弾いて、それで“西洋と東洋の融合”と言ってもねぇ……。“西洋と東洋の融合”って元々、インド人が西洋にインド音楽を広めようとしたり、ビートルズがインドの神秘みたいなスパイスをポップスに入れたかったり、そういう経緯なので」
――ただ、ヨシダさんはシタールを弾いているといっても、インド古典だけを極めようとしているわけでもないし、そもそもインド人になろうとしてるわけでもないですしね(笑)。
「そうなんですよ。“神との融合”とか言いながらハデな格好でシタールをビヨ〜ンと弾いてれば分かりやすいんだろうけど(笑)。インド古典はものすごく練習しますけどね」
――ところで、朝崎さんの唄を聴いたときにピンときたポイントはどこだったんですか?
「やっぱりコブシですね。シタールにも流派というかスタイルがあって、僕の師匠の師匠が細密なコブシを付けて弾く奏法を確立して、今の師匠に付いてるのもそれが理由なんです。そういう経緯もあって、朝崎さんのコブシにものすごく反応してしまって……」
――単純に言えば唄メロをシタールでなぞる、ということ?
「そうですね。シタールを器楽的に弾くならばシンプルなメロディになるんですが、唄うように弾くにはメロディに多彩なコブシが入ってくるわけです。コブシというのは二重構造なんですよ。メインの“ドレミ”というメロディに対し、小さなメロディを同時進行で唄うという二重の構造になってるんです。(細かくコブシを効かせながら)“ドォ〜レェ〜ミィ〜”みたいに。」
――その二重の構造というのはアジア的なものなんですか。
「いや、アフリカにもありますね。いずれにせよ、近代の合理的な社会が成立していく過程で、そういう二重構造はどんどんなくなってますけど」
――近代化のプロセスの中で削ぎ落としてきたということですよね。削ぎ落とすことが洗練化である、と。
「うん、そうですね。だから、ひとつのメロディを大きな波と小さい波の二重構造として扱うことは、すごく抽象度の高い作業です。近代社会がやってきたことというのは、様々な抽象性を排除して具体的な“ドレミ”を強調するということなんですよ」
――ふむふむ。その“抽象度”や“抽象性”という言葉をもう少し具体的に説明していただけないでしょうか。
「例えば、犬もいろいろな種類がいますね。ブルドッグとかシェパードとか。一見するとブルドッグとシェパードは違う種類の犬ですが、哺乳類〜生物〜有機体みたいに抽象性を上げていくと、それまで別々だと思って区別していたものに、いろんな共通性が見つかります。逆に抽象性を下げると、いつまでもブルドックとシェパードは別の種類の犬という認識のままです」
――なるほど。その“抽象性”っていうのは今回のインタビューのキーワードになりそうですね。ところで、朝崎さんと実際にやってみていかがでした?
「一見、奄美民謡とインド音楽って共通点がないように見えるけど、抽象度を上げて聴いてみると、同じようなメロディやリズム、二重構造のコブシなど、たくさんの共通の音を発見できます。表面的にだけ扱ってると奄美民謡とインド音楽は別の音楽だけれど、抽象度を上げるとたくさんの共通点があり、朝崎さんと実際に演奏することで、アジア文化のダイナミックなウネリを間近に体感した……という感じです」
――ヨシダさんは義太夫(注6)にも強い関心を持ってますよね。義太夫とはどういう経緯で出会ったんですか?
注6:義太夫/義太夫節。語りと三味線によって語られる浄瑠璃の一種で、江戸の浄瑠璃語り、竹本義太夫(1651年〜1714年)が創始者。人形浄瑠璃や歌舞伎の義太夫狂言の伴奏としても奏でられる。
「知り合いに義太夫にハマった人がいて、(義太夫の演奏会に)連れていってもらったんです」
――その中で義太夫に惹かれていった、と。
「そうですね。最初に観たのは女流義太夫
(注7)。
竹本駒之助さん、
鶴澤津賀寿さんという人間国宝のすごい芸が、目の前で、生音で、たった3,000円で観れるんだからすごいですよ。僕自身どう日本の文化を捉えればいいか?というのをいつも考えてて、義太夫は明らかに日本の文化を作ってきた芸能のひとつで、そういうものが一体何なのか? 知りたい!というのが義太夫も聴きはじめた理由です。で、やはり抽象度を上げて聴いてみると、たくさんの共通点を見つけることができました。民謡、義太夫、その他の芸能を、今でも機会があればいろいろ見たり聴いたりしてるので、いろいろな共通点を今でもドンドン見つけてます。だから、文化っていろいろな要素が時空を超えて相対的に複雑に入り組んでる状態なんだなぁと実感してます」
注7:女流義太夫/女性による義太夫語り。娘義太夫や女義太夫とも呼ばれる。
――なるほど。
「音楽の起源にもいくつかの説があるんですけど、言葉から音楽が派生していったルートもあると思うんです。例えば低い声で“おい”と言うのと高い声で“おーい”と言うのでは、まったく違う意味合いが含まれますよね。同じ言葉でも音程とリズムの違いによって、異なる世界が生まれる。そこは義太夫も同じで、語り物ではあるけど音楽的なんです。かたや台詞とは別に状況描写をするときに歌が入ることもあって、“雪がしんしんと降り積もり……”と歌いながら情景を描いていく。つまり、語りと歌の境界線がはっきりしてないんです」
――例えば、同じ語り物とされる浪曲(注8)もすごく音楽的ですよね。浪曲師のフロウの心地良さにグイグイ引き込まれちゃうというか。で、僕にとってはそこがすごくヒップホップ的に思えたんです。
注8:浪曲/浄瑠璃や説経節、祭文語りをルーツとして明治時代に生まれた語り芸。浪花節とも言う。
「そうですね。ヒップホップと浪花節も共通点多いと思いますよ。ヒップホップの誕生も必然性があったというか、ああいう語り芸は人間の本能的な部分から自然と生まれてくるものだと思う。言葉と音楽、ダンスを分けることはないと思うし、そもそも学問だってそういうものだと思うんですよ。数学や物理のなかに哲学的思考が必要とされることもあるだろうし、美術家のように美しさを求める数学者もいる。文系/理系と分けることも意味がないし、要は、近代化という合理化マジックによって抽象性を下げられ、いろいろなものが別々に扱われてるけど、文化は、その逆で一見違うものの中にさまざまな共通点を見い出していくマジックだと思います」
――抽象的なものを整理し、具体的なジャンルやスタイルに落とし込み、最終的にはキャッチコピーを付けて……という。
「そうそう。どんどんジャンル分けし、そこに名前を付けていく。でも、ロックだってヘヴィメタルだってブルースだって、あるレヴェルではみんな一緒なんですよ」
――つまり、ヨシダさんは昔聴いていたロックと民謡や義太夫の間に線を引いてるわけじゃないということですよね?
「そうなんです。義太夫なんてロック的ですよ。ロックというか、メタル(笑)。ヒップホップと義太夫は誕生した時期に1000年ぐらいの隔たりがありますけど、その中に類似性を見出していくことになるように。文化に社会的な役割があるとすれば、そういう事を提示していくことなんじゃないかと思います。逆に、戦争のようなものは“これとそれ”“善か悪か”“敵か味方か”といった対立構造の意識を、煽られ利用されて引き起こされる。抽象度を下げて物事を単純化して対立構造を生みやすくされている」
ヨシダダイキチ×梅若会@CAY2012 〈秋田民謡とシタール〉
「シタールと一緒にやることで日本の文化の中にアジアの要素が混ざり合っているということを表現できると思うんです」
――ところで、秋田の民謡に関心を持ち始めたのは?
「震災後、被災地に慰問ライヴに行く機会があったんですけど、そういう場所でインド音楽をやるのもどうかなと思って、東北のものをやろうと。それで“会津磐梯山”を二羽高次さんとやることにしたんです。そうこうするうちに東北の唄をもっとやりたくなってきて、そのタイミングで秋田民謡のイヴェントに行ったのが大きかったんです」
――それは2011年に浅草の木馬亭で行なわれた〈てなもんや音曲&漫芸バラエティ『番外・秋田篇』2011・ふゆ〉(注9)のこと?
注9:てなもんや音曲&漫芸バラエティ『番外・秋田篇』2011・ふゆ/浪曲を中心とした演芸の公演を行う浅草・木馬亭で2011年11月に開催されたイヴェント。浅野梅若をはじめとする秋田民謡の名手が多数出演した、東京では珍しい秋田伝統芸能に特化したイヴェントだった。
「そうです。その時出演していた梅若会(注10)の方に声をかけたんですね。そうしたら三味線の人がBOREDOMS好きだったりして、僕のことも知っててくれたんです」
注10:梅若会/日本民謡梅若流梅若会。三味線の名手として知られ、秋田民謡の魅力を広く伝えてきた初代・浅野梅若(1911年〜2006年)が創始者。現在では二代目・浅野梅若を長とし、数多くの内弟子/門下生を抱える“民謡大国・秋田”を象徴する存在。
――その後、ヨシダさんは梅若会の若手と競演を重ねていくことになるわけですけど、秋田民謡の特殊性はどんなところにあると思います?
「秋田の民謡は東北の中でも一番明るいんです。津軽の三味線と秋田の浅野梅若の三味線の違いでいうと、津軽三味線の方は叩くような撥さばきで強い音色、それに対して秋田の三味線は唄に溶け込む繊細な撥さばきで柔らかく明るい音色です」
――梅若会の皆さんと実際に競演したのはどこが最初だったんですか。
「若手3人と秋田の小さなイヴェントでやったのが最初ですね。今後発展していくとは思いますけど、今は僕が秋田民謡をシタールで完コピしてる段階なんです」
――えっ、そうなんですか? そうは聴こえなかったな。
「実はリズムも変えてないし、アレンジも大幅にイジってないんですよ。ただ民謡は2分ぐらいで1曲終わってしまうので、唄の間に僕のシタールのソロを入れたりして1曲6、7分ぐらいにしてますけど。完コピしてるように聴こえなかったのは、民謡の中にアジア感があるからだと思うんですよ。まずはそれを発見して活かすことが大事です」
――梅若会とのコラボレーションにしても“秋田民謡とインド音楽の融合”というものではないというわけですよね。
「そうそう。秋田民謡の中にあるアジア的な要素、コブシだったり、リズムの取り方だったり、そういう部分ですね。そうするとインド音楽と秋田民謡が共通する要素が沢山あって、だから、シタールで民謡のメロディを弾くだけで“アジア的”な部分が浮かび上がり強調される」
――じゃあ、梅若会の皆さんにもある意味、普段と同じことをやってもらってるわけですか。
「そうです。だから、コラボレーションといってもアジアと日本を無理矢理ミックスさせようとしているわけじゃないんです。70年代にあったような'西洋と東洋の融合'みたいなコンセプトの作品って、それぞれの芸能が持ってるいい部分が消されちゃうことも多いんですよ。そこを消し合ってしまうのであれば一緒にやる意味はないですから。普段、日本人が自分の国の芸能にアジア的要素を見出すことって少ないと思うんですけど、シタールと一緒にやることで日本の文化の中にアジアの要素が混ざり合っているということを表現できると思うんです」
――最近では西アフリカの伝統楽器奏者ママドゥ・ドゥンビアさん(注11)とも活動されてますけど、マリの音楽の中に日本の民謡との共通項を見出すことも多い? 注11:ママドゥ・ドゥンビア/マリ共和国クリコロ生まれのコラ奏者、ギタリスト。80年代初頭よりサリフ・ケイタのバックバンドとして国際的な活動を展開。91年からは日本を拠点とするようになり、現在まで多方面で活動を続けている。
「多いですねえ。アフリカの音楽を聴いてる人は分かると思うんですけど、日本の民謡に近い部分がたくさんあるし、すごく似てるんです。言ってしまえば、土着の芸能っていうのは、ホントにナゼか共通項が多い。芸能に限らず、各地で同時多発的に似たものが生まれるというのはよくあるケースなんです。ギリシャ哲学とインドの仏教、中国の道教が似てたり、異なる文化の中で似たものが出てくる。それって要は“人間”ってことだと思うんですね。肌の色の違いであるとか育った環境の違いであるとか、そういった違いはあったとしても人間としての機能は基本的に一緒なわけで、似た感覚のものが生まれてくるんだと思います」
――今後の活動に関してはどう考えてますか?
「僕の場合、一緒にやる相手は西洋音楽の人でも誰でもいいんです、西洋音楽の中にもたくさんアジアやアフリカの要素が入っているし、そういうことを理解している抽象度の高いオープンな音楽家であることが重要ですけど。シタールなのにインド古典にこだわらずいろいろやってるのは、抽象性を上げることで、一見、まったく違う芸能でも、瞬時に沢山の共通点を見つけ出す術を発見してしまったからで、それこそが“文化”だと思うんですね。これからも、この必殺“文化の術”で、いろいろなものを繋ぎ合わせていきたいです。その逆は、抽象性の低い対立構造の争いなんで……」